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春をインストール【せりふ三題噺 / アップグレード名札夜桜】

夕暮れどき、作業フロアの窓が橙色に染まりはじめた頃、俺はまだディスプレイの前で固まっていた。

壁掛けカレンダーはめくられてすでに四月を示している。週明けの六日にはこの部署に新入社員が入ってくるというのに、社内貸出し用のノートPCのセットアップが終わっていなかった。

目の前の一台に、完全に振り回されている。上司から手渡された機器だった。

「まだ新しいけど、壊れちゃったみたいだから。修理して新人に渡しといて。」

それがつい、先週の話。

保証状態も、どこがどう壊れているかもわからない。年度末のバタバタしている時期に手を回せるはずもなく、ようやく昨日から着手したが、作業は難航していた。

事象は、起動後に時間が経つと確定でフリーズするというものだった。更新の履歴から、Windows10から11へのアップグレードが関係しているようだと目星はついた。しかし、ダウングレードもできない、復旧もできない。環境を残したままの初期化すら拒否される。

回復環境に潜り込み、どうにかデータだけは救出した。

机の上には、差し入れでもらった桜餅がひとつ。食べる余裕もなく、乾きはじめている。

諦めて、休みの間か週明けの朝イチにやることも考えた。だが、胸元の名札に書かれている「技術スタッフ」の文字が、今日はやけに視界に入ってきやがる。

やるしかない。

ダンボールから予備のUSBメモリを引っ張り出し、クリーンインストールを試みることにした。そしてそこから、再び長い戦いがはじまったのだった。

* * *

「勘弁してくれよ……。」

インストール中のエラー発生。数値が33%から進まないまま、無機質なウインドウと赤いバツ印が目の前に立ちふさがった。

消して、キレイにして入れ直せばそれで終わるだろうと思っていたが、甘かった。

「お先に失礼します。」

俺を除いた最後のメンバーが退室する。目の前の敵に絶望していた俺は、かけられた言葉に反応することができなかった。窓の外は、すっかり暗くなり始めている。

再び同じ工程を繰り返し、インストールを再度実施するも、同じエラー。悲観に暮れていると、ポケットのスマホが震えた。

誰もいないし、いいか。そう思い、俺はその着信を通話に切り替えた。

「もしもし。」

通話の相手は妻だ。どうやら、いつもこちらから連絡していた「仕事終わったよ」の報告がないので、連絡をよこしたらしかった。

「...…? そこ、どこ?」

少し話して、外ではないことを察したらしい。俺は苦笑いしながら答えた。

「地獄の入口かな……Windowsのアップグレード地獄。」
「つまり、まだ職場なのね。終わったら連絡してよね。」

一緒に食事をしよう、ということなのだろう。しかしこっちは、いつ終わるのかわからない作業中だ。「待っててね」とは言葉にできないまま、俺は通話を切った。

「こいつをなんとかしないとな……。」

画面の向こうに向かって呟く。相変わらず、表示されているのは同じエラーだ。なにか対応を変えないと、きっと結果は変わらない。

* * *

BIOSを開いて、各種設定をもう一度見直す。有効、無効の切り替えが無数に並んでいる。それぞれがどう影響するかは、完全には把握できていない。触れば直るかもしれないし、余計に壊れるかもしれない……そんな場所だ。

機器のストレージまわりがイカれてると終わりだが、ほぼ使われていなかったPCと聞いた。ディスクの劣化はしていないと思いたい。セキュリティの領域はこれより前に、問題ないと確認済み。

「となると、CPUか……?」

耳元で「そこ、どこ?」ともう一度聞かれた気がしたが、今度は返事をしなかった。ここがどこかなんて、こっちが聞きたいくらいだ。

設定をひとつずつ見直す。ネットとAIで調べつつ、普段なら触らない項目に手を入れた。今、要らないものはすべて無効に。祈るような気持ちで再起動。

──起動した。Windowsのロゴが懐かしく瞳に映る。

思わず息が漏れた。

そこからは、ひたすら地道な作業だった。ドライバーを順に入れていく。

だが、途中で管理者実行ができなくなるという謎の現象にぶつかった。原因不明。時間だけが過ぎていく。

時計はもう、見ないようにしていた。しかし、窓のそばの席だ。外がもう、完全に闇に沈んでいる、という情報はいやでも入ってくる。

そしてUSBポートが起動後に認識しなくなり、しかも安全な取り外しすらできなくなった。半ば意地になって、再びUSB起動からインストールをやり直す。

先ほどエラーで何度もつまづいた、黒い画面がうらめしい。春のこの、陽気な時期に。なぜ俺は、暗い世界でひとり祈りながら戦っているのか。

今回も、エラーは出ずにインストールまで無事に完了する。前よりも、先に進んでいる感触はあった。

「待っててね。」

妻に言えなかった言葉を、今度ははっきり声に出す。

さっきは、CPUの設定を元に戻していなかった。インストール完了後、CPUの設定を既定に戻し、再度ドライバーを入れ直していく。

ようやくマシンは静かに、そして完璧に動いた。最後の再起動。起動音が、耳をなでる。

完全復旧。音声、USBポート、LANポートも問題ない。俺は誰もいないオフィスで、椅子に深く座り込み、伸びをした。

* * *

最後に退室する者は、名札に入れてあるICカードを使って施錠して帰る決まりだ。俺は「技術スタッフ」の文字が見えるよう機器に名札をかざし、施錠して外に出た。

ひんやりとした夜気が頬に触れる。遅くなった帰り道、ふと気がついて、見上げた。

「おっ、ここ、もう咲いてんのか。」

街灯に照らされて、淡い光をまとうように。夜桜が、静かに咲いていた。その場所には、一本だけだ。

──そういえば。

大昔に買ってもらった、小学校低学年向けの雑誌の付録を思い出す。

その付録には、花咲かじいさんと色のない大きな木のイラストが描いてあって、桜の花びらを模した紙がたくさんセットになっていた。

木の部分に液体糊を塗っておけば、花びらを上から撒くことで桜が咲く、という寸法だ。ただ、当時の俺は気に入らないことがあった。花びらが表と裏で、白とピンクに色が分かれていたことだ。

ピンク一色で桜を咲かせたかった俺は、紙の花びらを上から撒かずに、ピンク面を表にして貼り付けたのだった。地道に一枚ずつ貼って、ようやく「咲かせた」。

さっきまでドライバーをちまちまインストールしていた作業を思い出し、なんとなく笑ってしまう。

昔と、やってることは変わらない。自分なりに、手作業で……春を、手繰り寄せていた。

俺は少しの間、立ち止まってその桜を見上げていた。そのとき、またポケットのスマホが震える。

忘れていた。「仕事終わったよ」の終了報告……。

俺は慌ててスマホを取り出す。

黒い画面に、妻の名前が浮かぶ。その奥に映った自分の顔は、少しだけ柔らいでいた。



※以下の企画に参加させていただきました。

※以下の企画にも参加させていただきました。(任意締切後投稿)


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。