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〇・五度【創作】

小籠包は、ぬるかった。

蒸籠の蓋を開けたとき、湯気がほとんど立たなかったので、予感はしていた。白く薄い皮は破れもせず、箸で持ち上げても形を保っている。慎重に噛むと、肉汁はきちんと中にあるものの、構えた舌は驚かない。いや、拍子抜けして驚いたほど、火傷の心配がなさそうだった。

『安全配慮のため、提供前に少し冷ましております』

テーブル脇の注意書きに、そう書いてあった。赤字で、丁寧な敬語で。

まずい、とは思わなかった。ただ、おいしくもなかった。小籠包という料理が、本来どんな食べ物だったのかを、少しだけ忘れてしまったような味だった。

私はひとつ目を食べ終えたところで、無意識にふたつ目へ箸を伸ばし、その途中で手を止め、じっと見つめた。微妙に、つかまれてふるふると震える小籠包。理由は特にないし、特に見ていてかわいげもない。ただ、さっきの感触だけは、舌の奥に残っていた。

そのとき、昼休み前に届いたメールの件名が、頭に浮かんだ。

──【重要】実験条件の変更に関する運用統一について

研究棟の共用スペースで、私はスマホを伏せて置いた。通知は目に入らなかったふりをしたが、件名だけで内容は想像できた。

先週、現場からあげた要望がある。

測定値のばらつきを抑えるため、温度条件を〇・五度だけ上げたい、というものだった。規定の範囲内で、理論的な裏付けもあり、試行回数も限定した提案だった。研究計画の内容や目的からの逸脱もない、合理的な進言だったはずだ。

私たちのやっている仕事は、派手な新薬開発ではなく、既存候補の条件検討や再現試験が主だった。マニュアルは分厚く、判断は細かく区切られている。

実験担当の若い研究員は、あのとき少しだけ声をひそめて言った。

「このままだと、再現性は取れても、精度が出ませんよ。」

私は頷いた。現場にいる人間なら、誰でも分かるような話だった。昔の自分も、似たようなことを誰かに言った気がする。

だが、返ってきたのは、想定通りの文言だった。

──前例がないため不可。
──個別対応は禁止。
──規定条件からの逸脱は認められない。

理由はそれだけだった。安全性の問題でも、倫理審査でもない。ただ、「統一されていない」という一点のみ。

私はふたつ目の小籠包を口に運びながら、会議室の光景を思い出していた。画面越しの管理部門の担当者は、穏やかな声で言った。

「現場のご苦労は理解しています。ただ、判断基準を変えてしまうと、責任の所在が不明瞭になりますので。」

「誰の責任なのか」という問いは、その場では出なかった。誰も、出せなかった。

機構内組織。共同研究。かかわる者が多いほど、責任は流れるように薄まっていく。それ自体は、わかる。

以前、条件を変えた誰かがいた。顔は浮かばず、ただその背中だけが浮かんだ。静かな報告書の中で、名前だけがこぼれ落ちていく光景。それを、一瞬だけ思い浮かべた。

小籠包の皮が、歯の間で静かに切れる。汁はこぼれない。汚れない。テーブルクロスも、私のシャツも。

歯ごたえも、スープの味付けも問題ない。ただ、熱だけが足りなかった。

実験条件も同じか、と私は思った。規定は完璧で、再現性は担保されている。事故も起きない。問題は起きない。ただ、欲しい結果に──あとひと息、届かない。

それでも実験は進む。研究期間があり、予算執行計画がある。そして、共同研究先への成果報告がある。いずれにせよ、進めなければならない。

私は現場に戻り、若い研究員に伝える言葉を、頭の中で選んだ。

「今回は、規定通りでいこう……。」

そう言う自分の声は、いつからか、熱が失われてきている。

三つ目の小籠包に手を伸ばし、私は初めて、何もつけずにそのまま食べるのをやめた。黒酢を少し垂らす。味が変わることは分かっていたが、そうしないと、最後まで食べきれない気がしたのだ。

酢の酸味で、舌が目を覚ました感覚がある。だが、それは本来の熱の代わりにはならない。

蒸籠の底に残った小籠包を、ひとつだけ残すかどうか、少し迷った。結局、箸は伸びなかった。

誰かに文句を言うほどの理由はない。かといって、なかったことにもできなかった。

店の入口の横に、業務用の電子レンジが置いてあった。出力表示は、家庭用よりかなり高い。小さく「再加熱できます」とだけ書かれていた。

条件を変えれば、結果は出せる。

私は、何もせずに店を出た。

冬の空気が、思ったより冷たかった。私はマフラーを直さず、そのまま一歩、外に出た。頬が少しだけ痛む。その感覚を、悪くないと思った。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。