ビルとビルの間に【創作】
女は窓の向こうでダンベルを持ち上げる男を見ていた。
毎日夜七時を少し過ぎると、男は道路向かいのビルで身体を鍛える。
そのビルには屋上にまでトレーニング器具を設置してあり、日がな一日誰かが鉄を持ち上げていた。
汗にまみれて、自らの肉体をいじめて過ごしている。あんなことの何が楽しいのだろうと女は思った。
男は、窓の向こうで湯温計をのぞき込む女を見ていた。女のいるビルは、入口に色とりどりの花が植わってあり、駐車場まで人工芝で覆われていた。
あんなに神経質になってまで飲むものだろうかと思った。お茶なんて喉を通れば同じだろうに。
道路を挟んで向かい合うビルの窓は、毎日だいたい同じ時間に明かりがつき、同じ時間に明かりが消えた。
* * *
男はトレーニングから帰ると、冷蔵庫からパックを取り出す。脂の少ない鶏むね肉のひき肉を、大量にフライパンへ入れる。油はひかず、焼き色がつきすぎる前に火を止める。
男が考えていたのは、職場の仲間のことであった。連れ立って、カレーだのラーメンだのを食べに行き、ろくに運動もしない。それなのに出っ張った腹や、健康診断の結果の数字を嘆いている。
「理解できん。なんでみんな筋トレしないんだ。」
誰に聞かせるでもなく言う。
「外食だって、高価なだけで栄養効率も悪いのに。」
彼のスマートフォンには、今日のトレーニングの記録が残っている。同じ重量を、前回より一回多く上げられていた。それだけで自然と、笑みがこぼれた。
健康管理の情報も入っている。体重や体脂肪の数値は、時間と労力をかけた分だけ、結果につながった。明日への活力の源泉が、その画面に詰まっている。
* * *
女は原稿データを保存すると、ようやく椅子から立ち上がった。パソコンを閉じ、窓のブラインドを少しだけ開ける。
「夜だし、ディンブラかな。」
ぽそりとつぶやくと、女は茶葉の缶を開けた。
目を細め、鼻先に意識をそそいで香りを確かめる。
この時間だけは、仕事の連絡も、届いたメッセージも、明日の予定も。いったん画面の向こうへ置いておく。
蓋を閉めて、お湯を沸かした。
九十三度。あと少し。
火を止めて待つと、温度計の赤い線がゆっくり下がる。
初めて飲んだのはたぶん、家庭科の授業で先生が淹れてくれたとき。自分でもやってみたいと思ったのが数年後。大人になって凝りだしたら、コンビニの紅茶は飲めなくなった。
ティーポットもカップも、あらかじめ温めてある。そうすることが、いつの間にか習慣になっていた。
抽出時間は三分。長くても短くてもいけない。
それは何度も飲んで、身についていた学びだった。
* * *
いつもの夜七時の光景だった。
ひとつのビルでは男がトレーニングをし、向かいのビルでは女が紅茶を淹れている。
男が自撮りで録画したフォームを確認すると、肘が少し開いていた。
ああ、こうではない。
タブレットの再生を停止し、鏡と向き合ってやり直した。
女はこのとき誤って、お湯を沸かしすぎてしまった。
しまった、私としたことが。
慌てて火を止め、小さく息を吐いて、もう一度水を入れ直す。
道路には、仕事帰りの人が増えてくる。男と女はたまたま同時に、眼下のその光景に視線を落としていた。
「今日は一杯だけな。」
「明日も朝早いし。」
肩を並べたサラリーマンたちが、飲み屋のある通りへと消えていった。
男は窓越しにそれを見て、「身体に悪いのに」と言った。
女も同じタイミングで、「身体に悪いのに」とつぶやいた。
もちろん、お互いの声は聞こえなかった。
* * *
飲み屋では、昼間の熱を身体に宿したまま、男たちが飲み交わしていた。
「部長さあ。」
「マジ勘弁してほしいよ。」
愚痴を言いながらも、この時間に彼らに浮かんでいるのは悟ったような笑顔だった。
そんな中、ひとりがホッピーの瓶を持ち上げる。
少しだけ、表情が引き締まる。
焼酎を少し。ホッピーを静かに。泡を潰さないよう、ジョッキを少し傾けた。最後の一滴まで、思った場所に落ちる。
「お、うまく入った。」
その出来栄えは、別に誰にも褒められない。けれど、彼には満足そうな笑みが浮かんでいた。
その日の気分に、ちょうどいい濃さだった。
* * *
窓の明かりが、ひとつ消える。
床には、汗のついたダンベルが置かれていた。
もうひとつ消える。
流しには、湿った茶葉が残っていた。
飲み屋の明かりも、もう少しで消える。
テーブルには、泡が薄く残ったジョッキが置かれていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。