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顔の見えない寄付【創作】

昔から、興味があるのは文化や歴史だった。

大学の専攻も自然とそのジャンルに近いものになった。得意な科目、好きな分野。道を「選んだ」というよりは、おぼろげに見えていた道が、足元で今なお続いているという感覚だった。

最近では勉強も兼ねて、創作系のプラットフォームで、関連知識や情報を発信している。あわよくば収益化できれば、儲けものだ。

ただし、読まれるよう意識して文章を書いても、なかなか売れないし登録数も伸びない。ニッチな分野ではあったが、同時に他であまり扱われにくい分野であるため、可能性は感じていた。

投稿記事の入力は主に、スマホの音声入力だ。同世代でも、レポートくらいならスマホで済ませる学生は多い。

先輩にPCのタイピングも覚えた方がいいとアドバイスをもらって、一万円で中古のノートPCを買った。メモリ4GBだが、ネットでの調べものや文章をまとめる程度なら十分のスペックだ。

* * *

ある日、Wikipediaを開いた。投稿するネタを探そうと思って……だっただろうか。開いた理由は忘れてしまった。

「目標達成まであと少しなんです! 寄付をお願いします!」

あ、またこれか。

異常に邪魔なポップアップとともに、金額選択の項目と支払い方法についての文言が並んでいる。

インターネット上の、季語もない風物詩。それが、定期的に見かけるWikipediaの寄付の広告だった。

気にせず閉じようと思ったとき、その目の前で踊る文言に、心にひっかかるものがあった。

「目標達成まであと少し」。

記事の投稿で、「読まれる文章」をこのころは意識していたからかもしれない。この文章で、寄付をしたいと思える人はいるのだろうか。そんなふうに考えた。

顎に手をやり、画面を見つめた。ノートPCが、絶えず小さなファンの音を立てている。

だいたい、こういった「訴えかけるメッセージ」には、ストーリーがつきものだ。募金にしても、誰かひとりの生活やエピソードを強調して財布の紐を解かせるような、ストーリー。

それが、ここには見当たらない。書いている人の、顔が見えないのだ。

多くの知識に無料で触れられることを目指している運営の思想に基づいた方針からくるものなのか、それはわからなかったけれど。

自分だったら、どうするだろう。目標の数値や進捗を語るより、もっと収益につなげる方法はあるんじゃないだろうか。

どうせ、答えのわからない問いだった。答えがわかったところで、運営者に進言することもない、ただの僕の中だけの思考実験。でも、Wikipediaでなにを調べようと考えていたかを忘れる程度には、脳の隙間へと思考を巡らせていた。

もちろん、このサイトが100%正しい情報が載っているとは限らないことや、特定のコンテンツでは権限を持つ者同士による編集合戦が起こっていることは知っている。

そのうえで、これだけの膨大な知識を集結し維持することは、並大抵のことではできないはずだ。その運営のためにお金が必要、というのは嘘ではないのだろう。

レポートや調べもの、関連コンテンツの検索に、過去お世話になったことは何度もあった。でも、寄付は考えたことがなかった。いつも、この広告の時期は少し離れたところから見ていた気がする。

「コーヒー一杯の寄付って言われても、僕はコーヒーあまり好きじゃないしな」。そんなことを考えながら。

そうでなくとも、数字だけの主張は押し売りの感が強く、迫られている感じがなんとなく苦手だった。

* * *

一方、こっちはどうだろう。

僕はノートPCで、投稿しているプラットフォームを開いた。仕組みとしては、基本の無料記事の他に、メンバーシップや有料記事、投げ銭による利用者からのサポートがある。

僕は有料記事を少し出す程度で、メンバーシップはやっていなかった。

僕の中での優先度は、自分のために情報を書いて残しておきたいというのが一番、興味ある人に共有したいというのが二番、そして収益化は三番手のモチベーションだった。

最近書いたのは、奈良時代の税制に、浮世絵の変遷についての記事。

その分野に明るくない人の視点でも読みやすいよう心掛けたし、図書館で資料のページをめくる手が軽かったことを覚えている。

しかし、案の定というか、ほとんど読まれていない。僕の最新記事の高評価はいつも、二桁に届く程度で止まって、その後数字は動かなくなる。

今日は珍しく、ありがたいことにコメントが一件付いていた。確認すると、詳しくない人が興味を持てたという反応……ではなく、歴史マニアの人からの記事内容に対する鋭いツッコミで、僕は思わず苦笑した。

アカウントを振り返ってみると、昔書いた「大学生が知っておくべき歴史上の制度五つ」が唯一高評価三桁をもらえた記事だった。

他の投稿者が出している記事を流し読みしながら、考える。

中には、メンバーシップを始めたという内容や、有料記事をはじめて出した、というような内容もあった。

ふと思った。

これも結局は「このコンテンツに価値を感じたら支えてください」という仕組みだ。Wikipediaと何が違うんだろう。

やはり、違うのはストーリーだろう。

Wikipediaは数字を語る。こっちは、作者自身を語る。普段から日記のような文章を書いている人も多いし、フォローして記事を追っていると、必然作成されたコンテンツの中に滲む、作者の人格に多かれ少なかれ触れることになる。

創作にかける思いや苦労が浮かぶだけでなく、その人の人生をまるごと預けてあるような記事さえあった。

そうやって、「この人を応援したい」という気持ちが収益につながっている気がする。

メンバーシップをはじめた、という記事をクリックして開いてみた。少し読んで、「ああ、またこれか」と思う。出かかったため息を、僕はそばに置いてあったペットボトルのお茶で流し込んだ。

「売り方を教えること」。それがそのままコンテンツになってしまっている記事。そしてそんな記事ばかりをつめこんだ、メンバーシップ。

もちろん価値はある。でも、「作品」より「集客術」が主役になっているのを見ると、少し寂しい気持ちになる。

大学近くのカフェでの出来事を思い出す。隣の席で「絆」や「夢」を熱心に語る、スーツを着た男性ふたりに、なにかを勧誘されている大学生がいた。あのとき僕は、その学生が逃げ切れるように、心の中で応援していた。

* * *

そう思うと。

Wikipediaは顔が見えない。だから感情は動きにくい。

でも、「売るための物語」を過剰に作らない姿勢には、どこか健全さも感じる気がした。

メンバーシップをはじめた投稿者の記事を見ると、早くも十人以上の参加者が集まっているようだった。

それを見て、少しマウスを持つ手が止まる。

僕はまだ、答えを持っていない。

ただ、もし自分が誰かに支えてもらうなら、「売り方を売る」より、書いたものそれ自体を読んでもらって、その結果として支援を受ける人でありたい。

投稿画面を開き、タイトルを書く。下書きしておいた内容を読み返す。図書館で触れた紙の手触りを、指が思い出していた。

「意外と知られていない、江戸時代の戸籍制度」

別に、思考実験の結果なにが変わったというわけでもない。僕の公開ボタンをクリックする手に、迷いはなかった。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。