夜を渡る舟虫【3つのお題に空想のひらめきを第37回】
深夜のファミレスは、いつ来ても時間の感覚が鈍る。窓の外は真っ暗で、昼間なら見えるはずの街路樹も、ガラスに映る店内の照明に隠れてぼやけていた。ドアが開くたびに、ほんのりと潮の匂いが店内の空気に混じる。
「にしても、久しぶりだな。……百年ぶりくらいか?」
森野のいつもの冗談に、お義理で笑う俺。森野と俺のあいだには、百年どころか、埋めきれない千年の余白が残っている気さえする。
「いって三年くらいだよ。俺が今の会社に移る、ちょい前に会ったろ。」
森野は中学高校時代の同級生だ。あのときは、背の順で前後の関係だったのに。今は、俺の目線の方が随分高くなっていた。
ちゃんとしていれば男前なのに、森野はいつも眠そうにして、くだらない夢を追いかけている。他の友人たちが大学受験や就職の折に離れていっても、なぜかこいつと俺とは縁が切れない。
ドリンクバーのコーヒーを注ぎながら、森野はもう話を始めていた。
「気球だよ。どう思う? 夜を渡る、鳥のようにさ。」
グラスの水面が、空調の風でわずかに揺れた。唐突だったけど、驚きはしない。また何かを始めようとしている。その空気だけは、席に着く前から分かっていた。
「ランタン・フェスティバルみたいな感じでさ。光を、夜に灯すんだ。夢も一緒に。」
俺はメニューを閉じて、森野を見る。面白そうではある。しかしいつも通り、日程や金の話は出ない。俺は肩をすくめて言う。
「んなの、誰がやるんだよ。」
「みんなさ。」
「みんなって誰だよ。」
森野は笑って、ごまかすようにストローを噛んだ。昔からそうだ。足元の話になると、急に輪郭がぼやける。
* * *
俺は正社員で、決まった時間に働いている。Web制作会社の下請け、保守担当だ。サーバが落ちないように、定期的にメンテナンスし、バグを修正して、利用者からの問い合わせに対応する。
一方森野の方は、今もフリーターみたいな生活を続けていて、セミナーだの、よく分からないボランティアだのに頻繁に顔を出していた。それが夢につながっているのかどうか、俺には判断がつかない。
俺は残業で遅くなる日が多く、森野もなにやら日々忙しそうだった。この時間まで営業しているファミレスは、ふたりがたまに待ち合わせて駄弁るには、うってつけだった。
海沿いの国道から一本入った場所。どちらの家からも歩いて来られるくらいの絶妙な距離感も、終電の心配もなく都合がいい。
「前も、失敗してたろ。」
俺は言った。
「ほら、あれ。人脈がどうとかって言ってたやつ。」
森野は少し考えてから、ああ、と頷いた。
「あれは失敗じゃねえよ。」
「出た。」
「勉強にはなった。」
この言い方も、変わらない。自分では決して「失敗した」と言わない。
テーブルには水で薄まったアイスコーヒーが置かれている。ポテトは、まだ温かい。でも、置いていれば冷めるのは時間の問題だ。
そのとき、森野のスマホがテーブルの上で一度だけ震えた。森野は画面をちらりと見て、何も言わずに伏せる。ロック画面に映った名前は、知らない女のものだった。
「でもさ……。」
森野は続けた。
「俺、まだ諦めてないんだよ。」
その言い方が、昔と同じだったから、少しだけ胸の奥がざわついた。
* * *
高校の頃、俺たちは一緒にWebサイトを作っていた。同級生の噂話とか、日記みたいなものを毎日更新して、アクセス数が増えるたびに、世界が広がった気がしていた。今はもうレンタルサーバも解約されて、URLを打ち込んでも何も出てこない。
俺のデザインやレイアウトを見て、いつも褒めてくれていた森野。俺も森野の、いろいろ飛び出してくる突飛なアイデアに笑っていた。
「またやれたらいいよな。」
森野が言う。俺は頷きかけて、やめた。
内心では、もう無理だろ、と思っている自分に気づいていた。同時に、置いていかれるような不安もあった。戻れない場所への郷愁と、夢を見ることへの照れ。
デザインを本気で学ぼうと、専門の学校に通った時期もある。資料を集めて勉強したことも。でも、あれは違ったんだ。プロと呼ばれる領域では、才能という土台のある人間にしか、努力を活かす権利すら与えてもらえない。向き合えば向き合うほど残酷で、ひたすら惨めになる世界。
だから俺はやめて、今の仕事に就いた。
顧客のWebサイトに手を入れていると、思うことがある。このインタフェースはこうした方が直感的で馴染みやすいだろうとか。デザインを自分だったらこうするだろうとか。頭に浮かぶたびに、その考えを振り払う。自分に、それを触る権利がないからだ。
今の仕事で俺に求められているのは、囲いの中で、見えない裏側で、落とさないようにすること。……落としさえしなければいい。いつしかそう、自分に言い聞かせていた。
隣の席では、受験生らしいふたり組が、参考書を広げていた。こんな時間でも、未来に向かっている人間がいる。
森野の話を聞きながら、鼻の奥に、さっきから消えない潮の匂いが残っていることに気がついた。
そういえば、中高のグループで近くの海に行った夜があった。その日の堤防で見た舟虫のことを思い出す。仲間うちで交互にライトを照らすと、逃げるように、濡れた岩から岩へ移動していった、小さな影。
気球を飛ばして「夜を渡る鳥のように」か。……どうせ、夜を渡る舟虫くらいにしかなれないだろうに。
空は飛べない。暗いところを選んで、地面を渡っていく。
「本気出しゃあ、ディズニー越えだって夢じゃねえよ。」
森野がこぶしを握り、立ち上がった。ちょうど背の高さの関係で、ファミレスの照明を背負う形になる。それはまるで、後光のように俺の目に映った。その拍子に、森野の左手が一瞬だけ目に入る。
「ばかだな。」
いつもの調子で、俺は笑った。その一瞬、こいつは一生、このままでいればいい、と心のどこかで思ってしまった。何も掴めず、何も成し遂げられず、ずっと夢の話だけをしていればいい、と。
そう思った自分に気づいて、すぐに視線を落とした。心は、まったく笑っていなかった。
こいつは、本気で言ってるんだろうな。年齢的にも、挑戦する最後のライン。……いや、そんな目に見えない線なんて、奴にはもともと関係なかったのかもしれない。
そのときふと、もがいているのは同じなんじゃないか、という考えが浮かんだ。それは浮かんだだけでなく、しばらく消えなかった。
──森野も、俺も。同じ地面にいるんじゃないか。
* * *
会計は、いつも通り割り勘だった。俺が奢ろうとすると、森野は必ず断る。それがこの関係を長く保っている理由だと、俺は思っている。
店を出てからの別れ際、街灯の下で、森野がポケットに手を突っ込む。そのとき、彼の左の薬指に、薄い輪の跡が残っているのが見えた気がした。俺の胸の奥が、すっと冷えた。
夜の空気は冷たくて、静かだった。
ポケットのスマホの通知を確認するが、何もない。頻繁に連絡を取り合う相手との関係は少し前に終わっていた。面白みのない俺とは合わないと、彼女の方から去っていった。
夢を語り、背中に光を抱く森野を、自然と思い出す。たぶん、俺の知らない時間の中で、あいつはもう……別の場所に立っている。
そう思った自分を、俺は少しだけ、嫌いになれなかった。情けなくても、別にいい。
※以下の企画に参加させていただきました。
🍊第37回 3つのお題
🎈お題①:「夜を渡る舟」
🐾お題②:「光を抱く森」
⏳お題③:「千年の余白」
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