波打ち際のサンダル【創作】
息子の顔は、顎のラインががっしりとしていて、どちらかと言えば旦那よりも私に似ている。そこに、亡くした旦那の面影はない。
旦那はあの日、流された息子を助けるため、海へ入って亡くなった。
息子は無事だった。私はしばらくの間、おかしくなった。
息子はかつてのことは忘れているらしい。水も怖がらないし、泳ぐのも平気だ。
今、ふたりで海に来ている。あの日とは、違う海。
遊泳禁止、の立て札があるところで、ふたりともスニーカーからサンダルに履き替えた。
仕事の日の朝、起きたときのこびりつくような頭痛。自分の至らなさで減っていく、通帳の数値を見たときの胃の痛み。
どれだけやっても、できない苦しみ。それを誰にも分かってもらえない辛さ。
自分ひとりの面倒を見ることさえ大変なのに、私の世界ではもう、私とこの子ふたりだけになってしまった。
* * *
旦那は子供を欲しがった。
私は、育てる自信がないから考えたいと言った。
そんな中、「俺が支えるから」の言葉に押し切られた。実際、できる限りのことはしてくれたと思う。でも、その支えはあの日からどこにも見当たらなくなった。
「なにか話して」と言うと、面白くしようとしてうまく話せなくなるあの人。「聞いてほしい」と言うと、粘り強く私の話に付き合ってくれたあの人。
私は、あの人とふたりだけの生活でよかった。
もちろん、幸せなことはいくつもあった。この子がいたから笑えたことも、あったかかったこともある。
だけどそれは、あの人がいたから意味のあるものだった。
この子がはじめて歩いた日の思い出を、共有している相手はもういない。
この子が運動会で走っても、隣の席は空いたままだ。
そんな日々と、これからも向き合っていかなければならない。
ちょっとしたことで喧嘩して、気持ちが沈んだ日も多かったのに。記憶の中の旦那はなぜか、いつも私に微笑みかけてくる。
* * *
今日は、久しぶりに海を見たいと思った。
気候がいい。体調がいい。条件が整っているなら、休みの日は出かけたい。好きで昼過ぎまで布団の中にいるわけじゃないってことを、自分自身で証明したかったというのもあるかもしれない。
潮風で髪が多少痛んでも、海を眺めていたいと思った。海の近くに住めば、見慣れて飽きると言う人はいたけれど。私はもともと、遠くまで広がる海が見える場所で、暮らしてみたいという考えがあった。
ここ数年、遠ざかっていたというだけ。色々なものを失った場所で、失くしたかもしれないものを、少しでも取り戻せたらと思った。
時期がまだ早く、泳いでいる人はいない。肌寒いと冷たいを、行ったり来たりしているような風が吹いている。
「海、入りたい。」
息子が言った。
遊泳禁止、の看板を思い出す。しかし、泳がなければ何の問題もない。歩いたり、浸かったり、沈んだりは禁止されていなかった。
サンダルを、波が届かないぎりぎりくらいで、足から外す。プラスチックが地面を擦って、乾いた音が鳴った。足裏が、砂粒のかたちにあわせて歪む。痛いと気持ちいいが半々くらいでせめぎあっていた。
波の音が、ゆっくり遅れて耳に届いてくる。
ふたり分のサンダルは、海に対して丁寧にまっすぐ向いた。私がそう教えてきたから、息子も同じようにする。近づくと、海は横に広がっていく。波に向かう私たちの後ろに、サンダルの履き癖と同じかたちの足跡が増えていった。
「冷たいね。」
そう言ってはしゃぐ息子の手と、私の右手がつながれている。けれど、私の手にはほとんど力が入っていなかった。たぶん私はこのとき、少し無理をして息子に微笑み返したと思う。疲れた顔をしていると、いつもこの子は私の心配をするから。
身体が、揺れる感覚。くるぶし程度までしかやってこない低い波なのに、重心を動かされたように感じた。
海には、サーフボードを浮かべる人もいない。浜には、釣りをする人の影もない。ここも、私とこの子、ふたりきりの世界になっていた。
「もう少し、奥に行こうよ。」
シャツとズボンを少し濡らしながら、息子は顔を輝かせる。私は流された浮き輪と、沖に向かって泳いでいくあの人の幻を見ていた。このとき、私はうまく微笑むことができていただろうか。
ざざん、と少し大きな波の音がした。先ほどよりも、身体をゆする感覚が強い。
ふと、浜辺の方を振り返る。
波が、息子のサンダルの片方に届いていた。砂粒と混ぜて浮かせて、海の方に少しだけ引き寄せている。その片足が、きらきらと光を反射していた。
大きな波が引いていく。揃えて脱がれていたはずの息子のサンダルは、右足を少し外側に傾けて脱いだような格好になっていた。
見覚えがあった。
ふたり暮らしのアパートで、よく見たかたち。あの人が、脱いだあとの靴だ。私は決まって、揃えて脱いでと口を尖らせた。
「あぶないよ。そろそろ、戻ろう。」
隣の息子を見て、そんな言葉が出た。ぼうっとしていることの多い休日だけど、このときは頭がしゃんとしていた。
あらためて右手に意識を移す。手を握ったとき、握り返す感触がある。家を出てからずっと触れていたはずなのに、今はじめて触れたみたいだった。
「もうおしまい?」
そう言って下から覗くのは、やはり私に似た顔立ちだった。似た顔なのに、その瞬間だけ、懐かしいと思った。
「うん。寒くなってきたでしょ。」
私はそう言って、息子を抱き上げた。少し、重い。踏ん張らなければ、身体ごともっていかれそうだった。それでも、この子の素足に砂粒がつかないように、サンダルのところまで運んであげることくらいはできる。
* * *
足を拭いて、靴の中に足をおさめる。
私は、海の入口から見た息子のサンダルのかたちと、自分を見上げるさっきの息子の顔を思い返していた。
浜辺から離れて、サンダルも、影もなくなる。残されたのは、波の音だけ。
また明日から、この世界で生きていかないといけない。それはうんざりするほど窮屈で、望みのない生活に戻るということを意味していた。
海の見える場所に来たからといって、以前となにかが変わろうはずもない。
防波堤の上に、夕焼けの影が落ちる。建物と海と、そのふたつの世界をくっきりと分断していた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。