六月、市内。圏外【創作】
その日、急に雨に降られた。近年は、六月を忘れさせる空梅雨が多く、バッグに傘は入っていなかった。
さあさあと、聞くだけであれば心地良い音。それは徐々に私を濡れ鼠にしていく。雨音に混じって、何かが鳴いていた気がした。
たまらず近所のスーパーへ入る。寒さに身体を震わせながら、温かい飲み物とちょっとした食材を買いまわる。このご時世、二十四時間やっている必要があるのかは疑問視していたが、ともかく今日は助かった。
出口付近には、店員が一名ぽつんと立っているだけ。セルフレジのヘルプにたまに呼ばれる程度で、他に割り当てられた仕事がないのかもしれない。
レジを通す段になって、思い出したように私は店員さんに声をかけた。
「すみません。ここって、ターメリック置いてますか?」
聞けば、表情を変えずにその店員さんは答えた。
「スミマセン。ワカリマセン。」
店員は、アジア系の海外の若者だった。しばらくその言葉の続きを待ったが、彼からは分かる人を呼びに行く素振りもなく、ありそうな売り場を提案する言葉もなかった。助けを求めたつもりが、ただ独り言を言ったみたい。
「海外の人なら、仕方ないかな」「店員さんだったら、もう少しちゃんとしてよ」。そんなことを、ごちゃごちゃと頭で考えていても仕方がない。その場をやり過ごしてしまうのが、いちばん簡単だ。私は、それ以上聞かなかった。
外の天気は、先ほどと比べてましになっているようには見えなかった。私は、家までの距離を速足で駆けた。
* * *
私は、ホットティーを入れたカップを両手で包みながら、考えを巡らせていた。何もしない無言の時間でも、頭の中ではせわしなく信号が送り込まれてくるような感覚がある。換気扇が風を送る音と、窓の向こうで不規則に鳴る環境音が、部屋に流れていた。気にするほどでもないような、音。
住んでいる場所は、一応市内。引っ越してきたばかりのころは、あたりが殺風景で今後どうなるのかと思っていたけど。近年急に、このあたりにも背の高い建物が次々と立つようになっていた。徐々にではあるが地価も右肩上がりになっていると、市政だよりは誇らしげに報じていた。
──とはいえ。
家の裏には、再開発中の空き地。何をしているのか、よくわからない工事と、大きな排水溝。ひっきりなしに、手が加えられていく周りの世界。
近隣でも海外の民が増えているようだが、治安も昔に比べればだいぶよくなった、と仕事仲間は口をそろえる。私が済んでいる最寄りの駅。駅前に自転車を置いておけば、鍵をかけていても壊されて盗まれるのが平常運転だったと彼らは言っていた。
新幹線の通る駅までも近く、大概の「ないと困る施設」も数駅の距離の範囲に収まっている。暮らしは便利で、安全だ。手を伸ばした先に、つかめるものがちゃんとある、そんな街。けれど私には、伸ばす手の先が暗くてよく見えないような感覚があった。
どこかそれは、孤独感に似ていた。職場の仲間以外に、知り合いや友人がいないからだろうか。生涯を共にする、伴侶がいないからだろうか。
私は、少し熱くなりすぎた両手をカップから離して、代わりに充電していたスマホを手に取る。昔の知り合いに、久しぶりにメッセージを送ってみることにした。
* * *
「えー、あんた恵まれてる方だと思うよ。」
電話の向こうから、いやに明るい、きんきんとした声が私の耳に飛び込んでくる。
「仕事したくても、できない人だっているんだしさ。」
私は、声の勢いに負けて、ほんの少しだけ相槌が遅れた。
「もう……。お母さんみたいなこと言うじゃん。」
相手の笑う声が静かに届く。無邪気な友人とのやりとりに、思わず頬が緩んだ。私は足を崩し、今度一緒に出掛ける先の予定を決めようか、と自然と提案をしていた。
しかし、いいね、と言ってくれたはずの、お相手の歯切れがどこか悪い。私の発する言葉以外のところで変に言い淀んだり、そわそわと落ち着かない印象があった。その違和感に、私の方が尋ねる。
「どうしたの? さっきから。……なんか変よ。」
「そっちこそ、なんなのよ。」
少し、いらついた口調で返す友人。
「さっきからずーっと、後ろで鳴ってる変な音。うるさくて集中できないんだけど。」
音?
──はて。
空調、じゃなくて。たしかに耳を澄ますと、窓の向こうからずっと聞こえていた。ごわごわ。ぐおぐお。みたいな音が、小さく大量に、そして断続的に。
「ああ!」
やっとわかった。
「カエルだわ。たぶん空地の水辺で、鳴いてんだ。」
「はあ? あんた、田舎じゃなくて市内にいんでしょ。」
そうだ。ずっと聞こえていたから、私には当たり前の「聞こえない音」になっていた。私は自分がまさか声を遮断していた側だったとは気づかず、友人に謝罪して、メッセージで予定をとりつけることで話はまとまった。
ひと息ついたあと、私はスマホをベッドに放りだした。
「なんだー、カエルか。」
窓をほんの少しだけ開けると、聞こえる音が増えた。雨は上がっていたが、カエルは今も気持ちよさそうに合唱している。
駅近く、便利な市内。スマホはずっと圏内だったのに、電波に乗った声だけが、届かなくなっていた。
遠くでは濡れた路面を、車の通る光がいくつも流れていく。顔に当たる風は湿気を含んでぬるかったが、何故だかそれも悪くないと思えた。
カエルの声は、夜の空に、溶けるように広がっていった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。