反理想論【創作】
「理想を語る者に、だまされてはいけない。あなたも、理想を語ってはいけない。」
人の集まる往来で、そう声をあげる男がいた。
「『こうすべきだ』『こうすべきではない』。そういった理想は、現実ではない。その者の中だけにある、まやかしに過ぎないのだ。
そのような自己啓発に、耳を貸しても、なんにもならない。あなたの現実は、変わることはない。」
その男の目の前には、書物が積まれていた。
「私の考えに共感できる者は、この書物を買って読まれるがよい。ためになることがたくさんあるだろう。」
多くの者が、その書物を手に取り、まじまじと眺めている。
* * *
ひとりの若者が、そのうちの一冊を手に取り、しばらく眺めてから言った。
「つまり、こういうことですか。
……『理想は、すべてまやかしである』と。」
「そうだ。」
「では、この書物には、『現実』が書いてあるのですか。」
「無論、その通りだ。」
その書物をぱらぱらとめくり、若者は言った。
「『理想論は、無意味だ』と書かれてあります。」
「先ほどから、申している通りだろう。」
ふんぞり返って言う男に、若者は書物を置いて、もう一度言った。
「『理想を語るべきではない』ということですね。」
いらいらした様子で、男が答えた。
「だから、そう申しておる。」
若者は、何かを理解したように、静かに本を閉じた。
「そうですか。」
それ以上は何も言わず、本を元の場所に戻した。
何も言わなかった。ひとこと、質問することもできた。
その「正しさ」も、理想ではないのか、と。
* * *
その後も、男は同じように言葉を繰り返した。人々はうなずき、書物を買い、何事もなかったように帰っていった。
誰も、それ以上は何も尋ねなかった。
ただひとり、さきほどの若者だけが、少し離れた場所に立っていた。彼はしばらく男の声を聞いていたが、やがて背を向けて歩き出した。
その手には、何も持っていなかった。
そして、それが正しいのかどうか、もう確かめようがなかった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。