今、そこにあるひとつ【てんのお題】
本島からはフェリーで半日かかるが、島では港から畑まで歩いて十五分もかからない。ここでは、海と森と家が、同じ景色の中で並んでいる。
観光客も少なく、自然であふれた風景。ぼくは、そんな島で育った。
港から坂を上って、じいちゃんの家に行く。そこでは、大人たちがよく難しい話をしていた。今日は家の人だけじゃなく、島の長老も来ている。島の外から来た会社の人が、話していた。木を切って、農地を広げるらしい。今よりも、ずっと大きく。
島には平地が少なく、農業は常に森林と隣り合わせだ。
「機械も入って、効率がよくなるな。」
父さんは機嫌よさそうに言った。母さんもうなずいていた。ぼくは退屈で、畳に置かれた湯のみの柄を指でなぞっていた。お茶の湯気が、ゆっくりとたちのぼっている。
「森なら、いくらでもあるからな。」
別の誰かがそう言った。じいちゃんは、少し目を動かしたが、そのとき何も言わなかった。
「……この島は、熊はもうおらんが、アブラムシはおるでな。」
長老は、一言だけぽつりとそうつぶやいた。
* * *
「お前は、どう思う。」
その日の昼過ぎ。じいちゃんが、ぼくに聞いた。
「農地を広げること? いいことじゃんか。じいちゃんも、そうやって農業を続けてきたんだろ。それで、熊もいなくなったって。……アブラムシの話は、よくわからなかったけど。」
じいちゃんは帽子をかぶり、ぼくに長靴を履けと言った。行き先を聞くと、「少し歩くだけだ」とだけ言った。
家の裏から森に入る道は、普段は近づくなと言われている。危ないから、だと思っていた。理由は教えてもらっていない。でも今日になって、どうして連れて行ってくれるんだろう。
じいちゃんが先に立って、その道を進んだ。
森は静かだった。鳥の声も、風の音も、遠くにある。足元の土は柔らかく、踏むたびに沈んだ。じいちゃんは振り返らない。ぼくは、置いていかれないように、背中だけを見て歩いた。
一時間くらいは歩いたと思う。毎日外で遊んでいるから、疲れは感じない。
開けた場所に出ると、そこに大きな木が立っていた。
太くて、高くて、幹には苔が張りついている。見上げると、枝が空をふさいでいた。何本も、何本も重なって、空が細かく割れて見えた。
じいちゃんは木の前で立ち止まった。何も言わなかった。ぼくも、黙って立っていた。めいっぱい首をあげても、全部を視界におさめることはできなかった。
この木が何年生きているのか、聞こうと思った。でも、やめた。なんとなく、そうした。
「熊とアブラムシ。」
じいちゃんが口を開いた。
「こいつらはな、同じ森におっても、かかわり方が違う。……この木も同じように、森のうちのひとつじゃ。」
やっぱり、意味は、よくわからなかった。
島には熊はもういない。そんなことは知っている。アブラムシは、畑にいる。見つけたら、薬をかける。
熊は、見つける前からいなくなっていた。
アブラムシは、見つけてからいなくさせる。
……ただ、それだけだ。
じいちゃんは、木に触れなかった。ただ、しばらくそこに立って、森の奥を見ていた。それから、来た道を戻り始めた。
帰り道、ぼくは足元で動く小さな虫を見つけた。踏もうと思えば、簡単に踏めた。一瞬、足が止まった。踏んだら、森の音がひとつ、減る気がした。
じいちゃんは何も言わない。ぼくは、そのまま歩いた。
ふたりの足音だけが、ひんやりとした森に包まれて鳴っていた。
* * *
戻ると、夕方になっていた。家では、さっきの話の続きが始まった。
農地の広さをどうするのか、数字は、予定は……。
ぼくは、縁側で、足を揺らしながら、森の匂いがまだ残っている長靴を見つめていた。
森は、あんなにも静かで、でも重たかった。
木はいくつもあった。でも、一本一本が、ここに来るまでに時間がかかっていた。「いくらでも」なんて言葉は、あの景色の中にはなかった。
庭先に出ると、森より少しだけ空気が暖かい。
ぼくはそこにある植物を見た。赤いアブラムシがいくつか、柔らかい葉にそっとひっついている。
夕方の光は、さっきより少しだけ傾いていた。
本文文字数:1,651字
※以下の企画に参加させていただきました。
お題:森林
キーワード:農業/長老
せりふ:「熊とアブラムシor熊ったな」
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