口の中に、刺さった針は【創作】
サメの口から釣り針を外す動画を、何度も見返していた。
「かわいそう」、「助けを求めているように見える」とコメント欄には書かれていた。
そんなことは証明できない、と研究者は言うだろう。サメは人間のようには考えない。感謝も、依存も、たぶんない。
けれど、釣り針は確かにそこにあったし、そのダイバーは決まって、近くに来たサメの針を取り除いてあげていた。噛みつかれたり、襲われたりする可能性を、度外視しているかのようだった。
取り除かれる釣り針を見ていると、そのまま残ったもののことばかり考えてしまう。海の生き物の口の中に、銀色の小さな金属片が引っかかったまま、残り続ける。そのことだけが、妙に胸に残った。
私は釣りをしない。
魚を責めたいわけでも、釣り人を責めたいわけでもなかった。ただ、人間が遊びや食事のために作った小さな道具を、海の生き物が体の中に抱えて泳いでいる。その事実を、うまくかみ砕いて、飲み込めなかった。
もし減らせるなら、減らせないのだろうか。
答えを探しているわけではない。ただその疑問を、濡れた小石みたいに、手のひらで転がしていた。
* * *
そのころ、私は海辺の町に来ていた。旅行ではなく、仕事だった。
何の仕事だったかは、あとから思い出そうとしても曖昧になる。会社の対応は悪くなかったはずなのに、後になって結局そのプロジェクトは頓挫したからだ。
潮の匂いに、駅前の古い商店街。午後の光が心地よい日和で、まるで普段の生活から切り取られたような世界。そこでは森の緑と海の青が作る、長く続く境界が視界の向こうまで広がっていた。
取材を終えた帰り道、堤防の脇を歩いていたとき。何人かが、釣り糸を垂れているのを見かけた。
その中のひとりが、ふと顔を上げた。
私は、立ち止まった。向こうも少し目を細める。先に気づいたのは相手だった。
「あれ?」
彼は笑った。
「もしかして、絵里奈?」
名前を呼ばれた瞬間。昔の景色がかた、と音を立てて開いた。記憶の中で、昔の顔が再上映される。
近所に住んでいた、兄ちゃんだった。
兄ちゃん、と呼んでいた。本当は何歳上だったのかも知らない。高校生だったのか大学生だったのか。
子どもから見れば、大人と変わらなかった。
自転車の乗り方を教えてくれて、夏休みには蝉を捕まえてくれた。近所の公園で野球をしたし、コンビニでアイスを買ってもらったこともある。
当時の私の世界は狭くて、その中にはいつも兄ちゃんがいた。
「引っ越すことになった」と言われたのは突然だった。思い返せば、青天の霹靂のような感覚だったかもしれない。無論、当時はそんな難しい言葉もその意味も、知るわけがなかった。
引っ越しの理由は覚えていない。親の仕事だったかもしれないし、進学だったかもしれない。
私は泣いた気もするし、泣かなかった気もする。この記憶もやはり曖昧だった。ただ、「もう会えなくなる」ということだけは理解していた。
最後の日のことだけ、妙にはっきりしている。
夕方だった。兄ちゃんは玄関先で段ボールを運んでいた。
何か言いたかった。でも何を言えばいいのか分からなかった。
兄ちゃんは笑って、「元気でな」と言った。
私は、顔をゆがめて無理して笑ったけれど。なぜ相手が笑っているかを懸命に理解しようとして、そのときは結局諦めた気がする。
それだけだった。連絡先なんて知らない。当時はそんなものを交換する関係でもなかった。携帯もないし、手紙を書こうとも思わなかった。
「子どもだった」から。
そして会わなくなった。本当にただ、それだけだった。
* * *
「うわ、何年ぶりだよ。」
堤防の上で兄ちゃんは笑った。少し日に焼けていた。昔より背中が丸くなった気もする。それでも、面影は残っていた。
しばらく立ち話をした。
仕事のこと。住んでいる場所のこと。互いの近況。会話は驚くほど普通だった。
ただ、かつての私の世界と、今いる世界が接続した感じがあった。
あのときとは違う場所、違う景色で、長い年月も経っていた。運命と呼んだって不思議じゃないくらいの大事件だったはずなのに。なぜか、子どものころよりもずっと、私の心は凪いでいた。
不意に竿先が揺れた。
兄ちゃんは「お」と言って振り返る。
慣れた手つきでリールを巻いた。
魚が上がる。銀色の小さな魚だった。
その口元を、釣り針が貫いていた。
兄ちゃんは魚を押さえ、ペンチで針を外した。魚は暴れ、口が開く。銀色の金属が光った。
その瞬間、なぜだか胸の奥がざわついた。その光が、私の目の奥、それよりもずっとこちら側まで、届いたような気がした。
兄ちゃんは気づいていない。
手を離して、魚を逃がす。魚は水面を打って消えていく。
それだけだった。
「最近、これが趣味なんだよ。」
兄ちゃんは言った。
「休みの日はだいたい来てんだ。」
そうなんだ、と答えた。それだけなのに、なぜだか苦しくなった。
サメの動画を思い出していた。口の奥に残った釣り針。助けを求めていたかは分からない。痛かったのかも分からない。
ただ異物だけは、確かに存在していた。
うまく言えないまま、私はその感覚を共有していた。ペンチの先で光った銀色が、まだ目の奥に残っていた。
兄ちゃんは何も悪くない。本当にそう思う。
引っ越しただけだ。子どもに別れを告げただけだ。そして今だって。ただ純粋に、釣りを楽しんでいるだけ。
責める理由が、どこにあろうか。
兄ちゃんがこちらを振り向く。
「どうした?」
そう聞いた。私は、少し考えた。長い間考えていたことを。名前も分からないまま抱えていたものを。
「ううん。」
そして、笑った。
「なんでもないよ。」
潮風が吹いて、遠くで波が割れた。
* * *
そうして私は、元いた勤務地への列車に乗った。長く続いていた緑と青の境界が、新しい景色に塗り替えられていく。この日が、出張の最終日でよかったと思った。
履歴として私に残ったのは、班メンバーの旅費精算の申請書と、出張報告書だけだった。
窓におでこが触れる。ひんやりとしていた感覚は、すぐにぬるい温度に置きかわっていった。
あの日からずっと、言えなかった言葉があった気がする。
もっと遊びたい。
寂しい。
行かないでほしい。
そんな子どもじみた感情の、置き場所は今もわからないままだ。
あの魚は、針を外されて海へ戻った。それで、何かが元通りになるわけじゃない。
兄ちゃんが、次の仕掛けを準備している姿を思い出す。よくわからない餌を取り付けていた。
その前で海は、ただ水面に光をたたえていた。その光の返し方は、コンクリートの上の、外された釣り針のものとよく似ていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。