朝のエレベーター【創作】
朝のマンションは、いつも静かだった。
部屋ではカーテンを閉めているから、扉を開けてはじめてその日、外の光に触れる。結果によって、劇的な感情の変化はない。明るければ「明るいな」と思うし、雨なら「雨だな」と思う。天気によって、その日の手順が少し変わるだけだった。
通勤や通学の時間帯と比べて、少し早めなのかもしれない。不思議と物音は少ない。エレベーターへ向かうまでの廊下では、いつも同じ場所で洗濯機の回る音が聞こえ、どこかの部屋からは味噌汁の匂いが漂っていた。
四階で、野崎はエレベーターの下降ボタンを押した。
ランプが点灯する。
表示を見ると、エレベーターは一階に止まっていた。
三十秒が、野崎の決めた時間だった。たとえばエレベータのかごが十二階まで上がってしまっており、動きを止めているとする。そうなれば、待たずに階段を使う。それだけのことだった。
火曜、金曜は燃えるごみの日。手や服を汚さないよう黒いごみ袋を片手に持ち直しつつ、野崎はスマホで時刻を確認する。
七時四十八分。
会社までは電車で三十分。いつも通り出れば間に合う時間だ。顔を上げると、目の前のランプの数字が2、3と増えていく。
そのまま四階を示し、──足を動かしかけた瞬間、表示は「5」に変わった。
野崎は顔を上げた。
「え?」
かすかに漏れた声は、静かな廊下に響いて溶けた。
このエレベーターは、自分がボタンを押したから動き始めたはずだ。けれどそのかごは、そのままさらに上へ向かっていく。通り過ぎる瞬間、誰も乗っていなかった。
おそらく上の階の住人が呼んだのだろう。
野崎はしばらく扉を見つめていたが、やがてため息をついた。エレベーターは一基のみ。三十秒のリミットは超過していた。
──このために、走るほどでもない。コーヒーを買うのは、職場近くのコンビニにするか。
隣の非常階段の扉を開けた。
どうせ一階までだ。革靴が階段を鳴らす音を背に、鉄の扉が重たい音を立てて閉まった。
* * *
六階で待っていた武田は、ようやく到着したエレベーターを見て息をついた。
表示は5から6へ。
扉が開く。
「間に合った……。」
思わず声が漏れる。小学生の娘が玄関を出る直前になって、「水筒忘れた」と騒ぎ始めたせいで、朝から予定が狂っていた。
左手には娘の手。右手にはスマホ。画面には、部長からの未読メッセージが残っている。
──午前の会議、少し早まるかもしれません。
武田は時計を見た。思考が錯綜する。
まだ間に合う。いや、たぶん無理だ。娘を学校まで送れば、遅れる。走れば間に合うかもしれない。タクシーを呼ぶほどではない、か?
エレベーターはゆっくり下降を始める。
途中、四階で止まった。
扉が開く。だが、誰もおらず静まりかえっている。見えるのは、無人の廊下だけだ。
武田は少し眉をひそめる。
──乗らないなら、押さなきゃいいのに。
そう思いながら、閉めるボタンを押す。ポンと音を立て、ゆっくり景色が狭まるタイミングで、湿気を帯びた空気の匂いがした。
そういえば、キッチンのうしろで流れていた天気予報では、午後から雨だと言っていた気がする。
この子を送ったあと、会社へ向かうか。あるいは、在宅申請をするか。会議は気になる。午後からの雨も気になる。
一階に着くころには決まっているだろうと思ったが、結局まだ決まらなかった。
* * *
一階のエントランスでは、セキュリティドアの向こうから、ゆったりとした朝の日差しが差し込んでいた。
先に階段を下りてきた野崎が、ゴミ置き場の前で足を止める。
そこへ、エレベーターから降りた武田がやってきた。
「あ、おはようございます。」
「あ、おはようございます。」
互いに軽く会釈を交わす。
武田は駐車場へ向かい、野崎はゴミ袋を金網の中へ置く。その間にも、呼ばれたエレベーターは、また静かに上階へ戻っていった。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。