五分前の外側【創作】
彼女との最初のデートは、植物園だった。自分は三十分前に着いた。彼女は十五分遅れてきた。
温室の入口でチケットを握ったまま、スマホの時間ばかり確認していた自分の前に、息を切らせて現れた彼女は、「ごめん」と一言だけ言って、すぐに中を見回した。遅れてきたことよりも、これから見るもののほうに興味があるみたいだった。
そのときは、別に悪い気はしなかった。気になっている相手と、はじめて出かける機会だ。待つ時間も、楽しみのうちだと好意的に捉えられた。また、一緒に出かけるために、準備に時間をかけてくれたのかもしれないと思った。
でも、それは特別なことじゃなかった。彼女にとっては、それが「普通」だった。
待ち合わせには、たいてい少し遅れてくる。十分とか、十五分とか、ときどき三十分とか。絶妙に文句を言いきれないくらいの遅れ方で、でも確実に予定は後ろにずれる。
自分は昔から、とにかく早めに動かないと落ち着かない。電車は一本前どころか何本も前のに乗るし、初めて行く場所は必ず調べて、乗り換えもルートも確認しておく。
そうしておけば、何かあっても取り返せると思っているし、実際そうやって失敗を避けてきた。自分の場合、待ち合わせ場所にたどり着けるかどうかの「不確かな時間」と、早く着きすぎて「待たないといけない時間」とを天秤にかけたとき、後者の方が精神的に楽だった。
だから、彼女の時間の使い方は理解しづらかった。
いつもぎりぎりで、見ているこっちがひやひやする。「大変じゃないの」と聞いたこともあるけど、「んー、なんとかなるよ」と軽く返されて終わった。
実際、なんとかなっていた。
不思議なことに、本当に遅れてはいけない場面では、彼女は間に合うことが多かった。
会場に入れない、とか、飛行機に乗り遅れる、とか、そういう「取り返しのつかない遅れ」は、一度もなかった。
ただ、いつもぎりぎりだった。
発車ベルが鳴ってからホームを走ってくる、とか。受付終了の直前に滑り込む、とか。
待ち合わせ以外の話で言えば、余計に料金がかかる残り数時間までサブスクを解約しないとか、有効期限切れ直前までポイントを使わないとか。自分からすればとにかく、肝が冷えるような綱渡りの生き方をしているように見えた。
それを見ていると、安心よりも先に、どういう仕組みなんだろうと思う。
同じ時間の中にいるはずなのに、どこか別の流れに乗っているみたいだった。
三度目にプライベートで会った日の雑談の流れの中でだっただろうか。苦手な言葉の話になった。
自分も彼女も、共通して、「五分前行動」という言葉が苦手だと言った。
自分は「五分前じゃ遅い」から苦手だと言い、
彼女は「五分前なんて無理」だから苦手だと言った。
この先一緒にいて、大丈夫だろうかと不安に思わなかったと言えば嘘になるが、同時になんだか面白いとも思った。
自分はいつしか、そのズレに少しずつ合わせるようになった。待ち合わせの場所は、可能なら本屋やカフェにする。あと少しで読み終わるくらいの本をバッグに入れていく。
ぴったり読み終えた頃に彼女が来ると、なぜかうまくいった気がした。何をうまくやったのかは、よくわからないけれど。
付き合いだしてから一年くらいのころ。一度だけ、大きく言い合いになったことがある。
「なんで約束を守れないんだよ。」
口に出した瞬間、自分でも少し言い過ぎたと思った。理不尽に上司に叱責を受け、苛立っていた日に、彼女が大幅に遅刻したのだった。
彼女は少しだけ眉をひそめて、それから言った。
「守ってるよ。」
「どこがだよ。」
「だって、一緒に来れてるじゃん。出かけられてるじゃん。」
言葉に詰まった。時間のことを言えばいい。遅れている事実を並べればいい。でも、それを言った瞬間に、今こうして同じ場所にいることまで、理屈と一緒に崩れてしまう気がした。
納得できたわけじゃない。でも。
「一緒にここに行こうよ!」
誘ったのは、彼女だった。そしてそれが、はじめの約束の言葉だった。
「じゃあその日、何時にここで待ち合わせよう。」
そして、そのあとの自分の言葉は、手段だ。最終的な目的ではなかった。そんなことを考えていると、その待ち合わせ場所には、強く言い返せない自分だけが取り残された。
彼女はその日、いつもより申し訳なさそうに謝ったあと、それでも「いこ」と自分の手を引いてくれた。拗ねた心と、振り回されている感覚がまだ心に残っていた。
けれど、自分は結局、その右手のぬくもりに従っていた。
* * *
もう、待ち合わせは何度目になったかわからない。植物園のあの日から、早三年が経とうとしていた。
今度の旅行は、遅れるわけにはいかなかった。共通の知人の結婚式があって、県外まで行く。前日に動けなかったから、当日の朝の新幹線を予約した。
こういう日は、大丈夫なはずだ。
頭ではわかっている。それでも落ち着かなくて、前の晩に「何時に起きるんだっけ」とメッセージを送った。
「七時」と返ってきた。家まで迎えに行ってあげたかったが、その時間はなく、彼女を信じるしかなかった。
当日の朝、七時ちょうどにこちらから「おはよう」のメッセージを送る。「起きた」と来たのは三十分後だったが、まだ、なんとかなるだろうと思った。そう思う自分が、少し前とは違っていた。
自分がホームに着いたのは、発車の二十分以上前だった。号車と座席をもう一度確認して、電光掲示板の時刻と腕時計を見比べる。
腕時計に狂いはない。重要な待ち合わせの当日に、時報を聞いて秒単位で合わせる癖は昔からだ。
発車が近づくころに、メッセージが来た。
「在来線遅れてる」
気慣れないスーツの背中が、少し冷える。ネクタイの首元がきゅっと締まる感覚があった。
あの彼女とて。こういった日は、五分前は無理でも四分前、三分前行動は目指して動くことができているはずだ。仮に一本電車が遅れても、なんとか間に合わせるくらいの感覚で動けていると信じたいが……。
しかし、さすがに今日は無理かもしれない、と思った。
ホームの番号と、新幹線の名前と、号車と座席だけを送る。最短で来られるように。自分には、それくらいしかできない。
ドアが開いて、乗客が流れ込んでいく。自分も席について、隣を一度見る。予約したその席は、空いたままだった。
縋るような気持ちで、スマホとドアを交互に見ていた。窓の外を覗き見ても、それらしき人影は見つけられない。
スマホに通知がない。「間に合った」の一言だけが、欲しい。
発車ベルが鳴る。
扉が閉まる。
三十六分発。
腕時計の表示が三十六分に変わった瞬間に、列車が動き出した気がした。
あと数十秒くらい待てないのかと、理不尽な思いが頭をよぎる。
電車の音が変わっていき、風景が流れる速度が上がる。
──ダメだったか……。
* * *
突然、スマホが震えた。
すぐには見られなかった。ここから先に来る言葉は、たぶんひとつしかないと思ったからだ。今駅着いた。何番乗り場だっけ。乗れなかった。何を言われようと、取り返しのつくものはない。
それでも、画面を開く。
「今8号車!移動してる」
一瞬、意味がわからなかった。
もう動いている。ドアは閉まっている。遅れてきて、間に合っていないはず。そう思っていた。
思わず、笑ってしまった。やっぱりな、と思った。それと同時に、どうやったんだよ、とも思った。安心している自分がそこにいた。
ここは、1号車。
隣の席は、まだ空いている。でもたぶん、埋まる。
──守ってるよ。
ふと、その言葉を思い出す。
このあと彼女はここに来て、同じ場所に向かう。自分は、発車時刻には席に着いているのが常だったけれど、端の車両でもなんとか捕まえられれば、あとから車両移動はできる。
それを「守っている」と言うのなら、たしかにそうなのかもしれない。
デッキのほうでドアが開く音がして、自分は顔を上げた。
※以下は関連作品になります。
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