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一段上の棚の本【創作】

その本は、机のいちばん端に積まれていた。何度も読み返した本だ。表紙の角が少し剥がれかかっており、触るたび、気になってそこをなぞってしまう。

「HSP気質・繊細な人のための──」

タイトルを声に出さなくても、内容はもう頭に入っている。刺激に弱いこと。音や言葉に疲れやすいこと。人混みのあとにひどく消耗すること。どれにも当てはまっていた。

ページをめくるたびに、「なにも悪くない」「あなたの個性というだけ」のような言葉が出てくる。まるで毛布みたいな言葉。薄くて軽くて、でもかぶっていれば、ないよりはずっとましに感じられた。

昔は、みんな同じだと思っていた。

音が自分をかきみだす感覚に必死で抗い、人の波をくぐるたび、頭痛とイニシアチブをとりあうような生活。

そうじゃなかった、と知ったとき。「あなたはそうだから」というラベルをそっと貼ってもらえたとき。……確かにふっと、世界はやさしくなった気がしていた。

動画サイトを開くと、登録チャンネルの動画が並ぶ。

「繊細さんの一日」
「無理しない人間関係」
「向いていない職場の特徴」

再生速度は、少しだけ速めにしている。目をつぶっていても、内容が入ってくる程度。全部を真剣に聞いているわけじゃない。ただ何かが流れていればよかった。

自分をいたわってあげていい。そして、人より弱いのだから、配慮されるべき。その理屈は、どこかやさしすぎる気もしたけれど、少なくとも、世界の雑音を一段下げてくれた。

休日は、なるべく人間以外の生き物と過ごした。犬のいる友人の家。猫カフェ。公園の鳩。植物の多い場所とセットだと、なおいい。

言葉を使わない相手といると、安心した。説明しなくていい。理解されなくてもいい。脳が混乱しない。

人を相手にするより、ずっと楽だった。

* * *

その日、雨が降った。傘を差すかどうか迷って、結局差すことを選ぶくらいの雨。空には薄い明るさが混じっており、長くは降らないと思われた。私は、雨宿りがてら書店へ寄った。この地方に多いチェーンの書店で、広くて安心できる空間が提供されている。

新刊を覗いたら、あとは決まったルートで巡回する。心理学の棚は、相変わらず人が多い。

図書館も好きだが、最近は足が遠のいている。前に行ったとき、館内で男の人の手が、すれ違いざまに身体に触れた。わざとじゃなく、あたっただけかもしれなかったけど。……それでもう、怖くなってしまった。

この書店は、喫茶店も併設していて店内の香りがいい。いつもの段。いつもの高さ。見慣れた背表紙が並んでいる。

ふと、目線を上げた。

一段上の棚に、知らない装丁の本があった。色味は地味で、タイトルも控えめだ。

「安易な自己理解が、人間関係を壊す」

そんなニュアンスの言葉が並んでいる。

手に取ると、中の文章は鋭かった。書き手の思想が、ページの向こうから目に突き刺さる。「自分にラベルを貼って頼るのは危険」。「わかったつもりになることの恐ろしさ」。「安心を与える言葉が、実は思考を止めている」……。そんな、指摘や警鐘。そして強い、非難の言葉。

胸が、ずきりと痛んだ。

これは自分のことだ、と思った。けれど同時に、自分は、こういう本を読む側だ、とも思った。

──だけど。

数ページめくって、気づく。

この本もまた、「あなたは一段上だ」と言っている。

HSPというラベルにすがる人よりも。通俗心理学に流される人よりも。わかっている、冷静な側だと。あなたも気づけば、こちらに立てる。書籍の中の言葉は、いつしかそんなささやきに変わる。

居心地の悪いところから良い方へ、誘い出すように手招きをする見えない顔。

そこに書いてあることは、たぶん正しい。嘘はない。

でも、胸の中を這うようにうずまくこの感情の正体は一体なんだろう。共感? 目からうろこ? 心が洗われる? ……どれも違う。そんな清らかな感覚ではなく、脳が洗われるような、染みついた汚れの感情。

──これも結局、提供しているのは「安心」だ。

「ラベルを貼って、自身の不安を単純化すればいいんだ」という思想も。「そんなレッテル貼りからは脱却すればいいんだ」という言葉も。そこに大きな違いはない。

不安を材料にして、少し賢い顔をした「わかった視点」から、居場所を売っているだけ。

思考が滑る。形を変えた、同じ構造でしかないのなら。もうひとつ、別のレッテルが──新たな構図がそこに生まれているだけではないのか。

本を閉じた。

レジへは向かわなかった。代わりに、そっと棚に戻す。一段上の、その場所に。

書店から出るとき、いつもの言葉が浮かんだ。

繊細だから、仕方ない。

でも今日は、それを使えなかった。かといって、代わりの言葉も、見つからない。

雨はあがっていた。屋根の外へ、手をかざすまでもない。足元の水たまりが、うっすらと私の世界を映していた。

心は洗われなかった。

そこには、濁ったままの水を、ただ見ている自分がいるだけだった。


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財布野紐ゆるみ 書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。