花火のあとで【創作】
鏡台の前で、菜月は動かないまま座っていた。開いたままのコンパクトと、使いかけのリップ。丸机の上には、押し出された錠剤の包装紙が、不貞腐れた空気と一緒に、散らばっている。
僕はその横に、麦茶の入ったピッチャーを置いた。
「ここ、置いとくから。」
返事はない。代わりに、彼女は小さく息を吐いた。僕は続けて声をかける。
「頼むから、なにもしないで。」
時間差で、鏡越しに目が合う。責めているわけでも、怒っているわけでもない。覇気の失われた、余白のない顔だった。
玄関には、新しく買ったサンダルが揃えてある。花火を見に行くつもりで出してきたまま、まだ履かれていない。
「もう、間に合わないよ。」
さっき、何度も言った言葉を、また繰り返す。
「数駅先でしょ。人も多いし、音も光もきつい。帰りも遅くなる。明日、仕事だし、夕飯だって……。」
「夕飯なら、屋台でいいじゃん。」
彼女はそう言った。前を向きながら、まっすぐじゃない声で。そのお金を誰が出すのか、という話は出てこなかった。衛生面も、精神面も、不安しかない。彼女自身、一番わかっていることのはずなのに。
出さないまま、胸に積もる言葉だけが増えていった。気づけば、花火の時間を過ぎていた。静かで閉じられた空間に、彼女のかすかな吐息の音がする。
「……お花見も、できなかった。花火も見れない。なにも、できない……。」
菜月は泣いていた。声を殺して、顔を伏せて。鏡台の前のまま、動けなくなったみたいに。
彼女が泣けば、心はいつも痛んだ。でも、前とは少し違った。「またか」という気持ちが、一緒に顔を覗かせることが増えて、それが不快だった。彼女の方でどうにもならないことを、僕がどうにもしてあげられない事実が、何より堪えた。
朝、起こしても、起きられない。病院に連れ添っても、たどり着けず途中で引き返す。僕ができることなら、してあげられる。では、できないことは、どうすればいいのか。
僕は、財布を持った。
「……何か食べられるもの、買ってくるから。」
返事はなく、ただすすり泣く声がしただけだった。ドアを開けて、閉める。そのまま階段を一段降りて、足を止めた。雨上がりの匂いと同時に、いつもと違う気配を感じた。
すぐに引き返す。部屋に戻って、窓を開けた。菜月が、通りすぎる僕を振り返る。
その瞬間、空気が弾けるような音がした。遅れて、光が見える。立て続けに、いくつも続く。遠くの空で、小さく花が開いていた。
ベランダに出ると、遠くの方で、下の路面に残った水たまりが、ちらちらと鮮やかな光を返していた。光からこぼれた色だけが、そこに落ちているみたいだった。
きれいなものを、一緒に見たいと思った。
最初は、それだけだった。
付き合いはじめた頃、夜景でも、イルミネーションでも、なんでもいいから連れ出して、彼女が笑うのを見るのが好きだった。少し無理をしてでも、外に出れば、ちゃんと笑ってくれた。
今は、そうじゃない。
それでも。
「……ちょっと。来てみて。」
部屋の中に声をかける。しばらくして、足音がする。サンダルは履いていない、裸足のまま。
菜月は目元をこすりながら、ベランダに出てきた。
「花火、見えるよ。」
そう言うと、彼女は少しだけ顔を上げた。踏み台を置いて差し出すと、少し迷ってから、そっと乗る。手すりが、さっきよりも低くなる。
軽い。
支えるために腰に手を添えると、その細さが伝わる。彼女は空を見ている。次第に、うっとりと心を奪われるような安らかな表情に変わる。一方僕の視界では、瞳の端の方で、赤や黄色の光が滲むように歪んで広がっていた。
「……あ。」
小さく声が漏れる。その背中を見ていると、一瞬だけ、頭の中が滑った。空で開く花の音が、ひときわ強く、耳に響いた瞬間だった。
このまま。
ほんの少し、力をかければ。
落ちてしまえば、楽になるのかもしれない、と。
「気を付けて。落ちないで。」
それでも、口から出た言葉は、違うものだった。手は、そのまま彼女の背中に触れている。
「大丈夫だよ。」
彼女は、振り向かずに言った。
「恭くんが、支えてくれるもん。」
その一言で、戻る。
鮮やかな夜空の光も。落ち着いた、力強い音も。
僕は後ろから、菜月を抱きしめた。落ちないように。離れないように。
花火は、しばらく続いた。光はすぐに消えて、遅れて音だけが届く。見えなくなってからも、しばらくのあいだ、音だけが残っていた。
さっき置いた麦茶は、すっかりぬるくなっていた。
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書いてる人も偉い。書いてないけど考えてる人も偉い。まぶしい。