写らない人【創作】
レンタルの衣装を汚さないように気をつけながら、私は案内されるままに廊下を進んでいた。
「本日はおめでとうございます。」
私はすれ違うスタッフからその言葉を投げられるたび、「あ、私じゃないんで」と心の中でことわりを入れていた。そんなことは相手も分かっているだろうけど。
結婚式の受付は、思っていたよりも単純で、思っていたよりも忙しい作業だった。
名前を書いてもらって、ご祝儀を受け取って、席次表を渡す。ただそれだけのことを、決まった順番で繰り返していく。式場のパンフレットには「ファイブスターウェディング」と書かれてあったけれど、少なくとも受付の机の上には、それらしい特別感は見当たらない。
ペンが一本。ピラ紙の芳名帳が数枚に、白い封筒を入れる箱がひとつ。新郎側の受付にも、同じセットが配置されている。
しかし、それで十分なはずだった。
* * *
最初のうちは、何も問題はなかった。一時間も幅のない受付時間の間に、ばらばらと人が訪れる。来る人来る人が名前を書いて、軽く頭を下げて、会場の奥へと消えていく。
なるべく余裕のあるタイミングでドリンクのサービスや色紙へのメッセージ記入を促し、聞かれたときにお手洗いやクロークの場所を案内する。
似たような流れが続いて、私はだんだんと、自分が何人目の人を相手にしているのかわからなくなっていった。意識していないと顔も強張ってしまう。なにしろ、笑顔はレンタルできなかったから。
その異変に気づいたのは、二十人目くらいだったと思う。新婦側の芳名帳の用紙が、最後の一枚になった。リストを確認すると、まだ来ていない招待客は三十人程度いる。用紙は十名しか名前を書く欄がない。
──足りないじゃない。
今もまだ、数人並んでいる。埋まってしまうのは時間の問題だ。私は、紙面の空白よりも先に、心の色を失っていた。
「少々お待ちください。」
そう言って席を立つと、小走りで移動し、後方にいたスタッフに声をかけた。途中、焦ったせいで、机の角に腰のあたりをぶつけてしまった。
「あの、芳名帳の用紙が……」
痛みと困惑で顔をゆがめながら途中まで言ったところで、横を誰かが走り抜けた。風が抜けるみたいだった。
振り向くと、黒いシャツにパンツ姿の女性が、カメラを抱えたまま廊下を駆けていくところだった。ヒールではなく、底の薄い靴を履いている。動くための服装。さっき、受付の写真も撮ってくれていた人だ。
「すみません、後ほどお持ちいたします。」
一方私が話していたスタッフの方はというと、そう言って、別の方向へと急いでいった。
私は仕方なくひとり戻り、受付を続けていた。しかし、とうとう用紙に書く場所がなくなった。ペンを持ったまま、ひとりの客を待たせることになる。
「あの、少しだけ、お待ちいただけますか。」
申し訳ないなあ……。願わくば、この待たせている人があまりこの式にとって重要なお客でありませんように。そんなわけない祈りを私は神に投げた。聞いていたら、新婦も神父も怒ったと思う。
けれどその人は困ったように笑って、「大丈夫です」と言った。
それからの数分は、やけに長く感じられた。
その間も、あのカメラの女性は走っていた。
扉の向こうから現れては、別の方向へ消えていく。おそらく後輩らしき男性カメラマンを呼び止めて、短く言葉を交わし、また走る。シャッターの音が、遠くで何度も鳴っていた。
式が始まれば、たぶん予定通りの景色だけが見える。
決められた順番で、人が動き、音楽が流れ、笑顔が重なっていく。そのひとつひとつを、彼女は切り取っていく。後から見返したときに、何も問題がなかったように思えるように。
しばらくして、追加の芳名帳が届いた。
私は何事もなかったようにページを開いて、「お待たせしました。こちらにお願いします」と言った。
結局、待たせたのはそのひとりだけで、それから先は、また同じ繰り返しだった。
受付時間の最後の方に客が集中したおかげで、新郎側の受付の男性に手伝ってもらうことにはなったが、なんとか自分の役目は無事に終えられた。
* * *
式も、披露宴も、つつがなく終了した。食事は美味しかったし、式場もきれいだった。
私は何枚も、写真を撮った。新婦は私の職場仲間で、ほかの招待客も何人かは見知っている顔だった。
カメラの女性はその日に何度も、視界を横切った。
一度だけ、すぐ近くで立ち止まったことがある。レンズを覗き込んだまま、呼吸を整えるように肩を上下させていた。額に、細い汗が浮かんでいた。それでも、各テーブルの写真を撮ってまわるときには、被写体の笑顔を誘うために、大きな笑顔でカメラを向けてくれていた。
その横顔は、不思議とよく覚えている。
式が終わって、会場の片付けが始まるころには、もう彼女の姿は見えなかった。
* * *
私は、軽い引き出物を片手に、「いまどきだな」と安心しつつ、バスに乗った。
座ったとき、オーガンジーの裾がどこかに引っかかるのを感じた。視線を落とすと、重なった薄い布の一枚が、目立たない場所で小さく裂けていた。
指で触れると、思っていたよりも簡単に形が崩れそうだった。いつ破れたのかはわからない。布地に触れる、指のジェルネイルだけが、やけにきらきらと輝いていた。
ほのかな疲れと、衣装を返すときのことを思うとため息が出そうになったが、こらえた。
式のあいだ、誰にも気づかれなかっただろうし、まあいいや。
私はバスに揺られながら、受付の机の上を思い出していた。使い終わった芳名帳の用紙が何枚も重なる。それらはすべて、びっしりと名前で埋まっている。
あのときの空白は、もうどこにも残っていない。少しの滞りも、戸惑いも、待たされた時間も。
きっと今日の写真を見返せば、何も滞りなんてなかった一日に見えるのだろう。
それが、正しいのかどうかはわからない。
ただ、あの人が走っていたことだけは、たぶん写っていない。
私はそれを、少しだけ残念に思った。あのとき横顔を、写して残しておければよかった。
そう、なんとなく思った。
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