「残酷になろう」と彼女は言った



天才の家に生まれて「未満」と書く名を享けたことは、望ま れざる子どもであると説明不要の証明だったので彼女は気楽であった。
「みま」でも「みみ」でも「まみ」でもなく古ぼけてどことなくまぬけな「すま」と読む名であったため、ますます周りの目は憐憫で湿り気を帯び、気持ちの悪い蔦のように彼女の四肢にべたりと絡んだ。
未満の父は超絶技巧で名を馳せたピアニストであり、自らと同じ道を歩ませるべく男児を切望していたが、身体の弱かった未満の母が命と引き換えて生んだ子どもが女児と知るや、下等な生き物を分類するように名をつけ広い屋敷に捨て置き海外諸国を演奏で回る人生に切り替えた。
ハウスキーパーが調える屋敷に離人の心持ちで暮らしつつ、父は確かに天才であると彼女は思った。
胃の腑が焼けるように憎んでいたが、時折テレビで特集される父の演奏は世界を作り変えるように場を支配し、圧倒し、聴いている者の心を鉤爪で捕らえて放さないものだった。
胸に食い込む爪の鋭さをまざまざと感じつつ、彼女はその調べに酔うことはできなかった。
使いもしないのに場所をとる巨大で重い邪魔なだけの硝子の灰皿で、うつくしくおぞましく鍵盤の上を這い回る父の長い指を一本一本ぐちゃぐちゃに殴り潰してやりたかった。
世界は彼女にやさしくなかったので、彼女も世界にやさしくしたくなかった。
彼女にとっての世界は父であり空っぽの屋敷であり好奇の目であり、やたらとかまってくる教師であり沈黙に沈む母の墓でありひとり歩く道の昏さと寒さであった。
そういうものを切り裂き、踏みつけ、握り潰し、燃やし、滅ぼしたかった。
天才は天災だ。
父親は彼女にとって災いでしかなく、未満と呼ばれる自分ならばと人災になることを彼女は決めた。
世界に傷をつけるため。
「残酷になろう」
と彼女は言った。
