見出し画像

OSの断片|沈黙の翻訳。


夫はシャワーを浴びているはずだった。

脱衣所の前を通っても、
水の音がしない。

しばらく経っていた。

「どうしたの」

扉の向こうから、
少し間があって、
「考え事してた」

と聞こえた。 

たぶん、お金のことだ。

今月はまだ大丈夫。

でも来月は足りない。

夫はそう言って、
証券を売った画面を見せてきた。

売却済みの文字の上に、
夫の指がしばらく残っていた。

小さく息を吐く。

スマホの画面が暗くなった。

私はコップを持ち上げた。

まだ中身は残っていたのに、
台所へ運んだ。

音を立てないように置く。

話しかけた方がいいのか。

黙っていた方がいいのか。

冷蔵庫を開けて、
何も取らずに閉めた。

夫は、
言葉では何も責めない。

仕事が決まらないことも。

お金が減っていくことも。

私のせいだとは、
一度も言わない。

それでも、
浴室で一人、
じっと座っている夫を想像すると、
胸の奥で、
誰かが私を見ている。

何か言え。

どうにかしろ。

お前のせいだ。

そんなことは、
一度も言われていない。

なのに、
聞き覚えのある声だけが残った。

私は少し大きな声で、
「ねえ、今日さ」
と話し始めた。

自分でも驚くくらい、
いつもの声だった。

明るく。

何も起きていないみたいに。

夫が黙っていただけなのに。

あれは、
誰の声だったんだろう。




▶︎ あの日々の始まりを書いた作品です。
「夫の正体|土曜日がなくなった」

いいなと思ったら応援しよう!