純文学|帰るふり
このあと、
ホテルへ行く。
そんなこと、
お互い分かっていた。
なのに私たちは、
何事もない夜みたいに食事をしていた。
仕事の話をして。
くだらないことで笑って。
店員さんに、
「ごちそうさま。」
なんて言って。
まるで、
このあと本当に駅で別れるみたいだった。
彼は急がない。
触れもしない。
目の前のワインを飲みながら、
何も決まっていないような顔をする。
私も、
何も期待していない顔をした。
当たり前になりたくなかった。
だから私は、
少しだけ距離を置く。
少しだけ冷たくする。
少しだけ、
帰ってもいいような顔をする。
食事が終わる頃になると、
彼は決まって言う。

「じゃあ、帰ろうか。」
私は、
その言葉にまだ慣れない。
今日は終わりなの。
そんなはずない。
そう思うのに、
何も言えない。
帰らないで。
その一言だけが、
どうしても言えない。
彼は立ち上がる。
私も立ち上がる。
少しだけ遅れて、
彼の後ろを歩く。
ホテルへ向かう道なのに。
私たちは最後まで、
帰るふりをしていた。

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