沖縄戦:1945年8月15日(水)
渇望の平和 愈々到来‼︎(ウルマ新報)
沖縄、日本へ向かっていた爆撃機呼び戻す
琉球政府の前身「沖縄諮詢会」発足
「日は昇る赤ちゃんは泣く花は咲く」(平和の俳句)
(8月15日付シカゴ・トリビューンより)
戦下の沖縄米兵 平和つかむ
(アーサー・ヴェイシー特派員)
沖縄発 8月15日:
今朝8時を数分過ぎたころ、沖縄の陸軍ラジオ局が、基地内で流れていた朝食時の音楽を突然中断し、「星条旗(Star-Spangled Banner)」の演奏を始めた。
最後の勇ましい音が消えぬうちに、アナウンサーは息を弾ませた声でこう告げた。
「トルーマン大統領が、いま日本が我々の条件を受け入れたと発表しました」
すると再び「星条旗」が流れ出した。

仕事は続く
朝食用の鍋を洗っていた陸軍の炊事係は、手にしていたモップを一度止めたが、すぐにまたゴシゴシと磨きに戻った。自動車整備場では拡声器が再びその日の運転手の名前を呼び上げていた。
「戦争は終わったぞ!」と、あるGI(米兵)が、燃料タンクを満載したトラックを運転していた日焼け顔の兵士に叫んだ。
戦線各地に立ち並ぶ天幕とトタン張りの詰所のひとつ、作戦計画部にいた将校はこうつぶやいた。
「くそっ」
彼は何カ月も、日本本土侵攻の作戦計画を夜中まで練り上げ、その進展を見守ってきた。「日本野郎はルールを守らないからな」と彼は言った。
彼は、すべての立派な計画を捨て、一部の兵を帰国させ、別の兵を日本へ送る方法を考え直さねばならなくなった。

爆撃機呼び戻す
立入禁止の看板に囲まれた区域では、航空将校が昨夜、「和平交渉のせいでこの数日で1500回もの攻撃機会を失った」と不満を漏らしていたが、今や日本へ向かっていた爆撃機を呼び戻すことになった。
前線にいる、実際に飛行し戦う兵士たちは、「やっとその時が来た」と語った。
トルーマン大統領の発表が伝えられるや否や、GIたちは「天皇を傀儡として残すべきか否か」で口論を始めた。
そして新しい決まり文句が、あっという間に広まった。
「おい、戦争が終わったのを知らないのか?」
(Don't you know there's a war off?)
渇望の平和 愈々到来‼︎

日本敗北、沖縄にも伝わる



日本降伏を聞いて喜ぶ沖縄住民

日本兵捕虜は敗戦を聞いて一杯のビールと休みを欲しがった

(いずれも沖縄県公文書館より)
手放しで泣ける幸せ
「日は昇る赤ちゃんは泣く花は咲く」(平和の俳句)
戦争の狂気は、沖縄のガマで、敵に見つかるからと赤ん坊の泣き声すら圧殺した。
「電車や飛行機で赤ちゃんが泣いてると、もっと泣きなさいって思う。子どもが手放しで泣けるって、平和だからですよね…」
(8/15/2019,東京新聞より)

【沖縄戦日録】
琉球政府の前身発足
・沖縄各地区代表約120人が石川に集まり、沖縄諮詢会(行政機関)設立について協議した。
(写真は琉球文化アーカイブより)
(「総史沖縄戦」より)

沖縄諮詢会

発足時のメンバー15人
志喜屋孝信(委員長)
松岡政保(幹事兼工務部長)
又吉康和(総務部長)
大宜見朝計(公衆衛生部長)
前上門昇(法務部長)
山城篤男(教育部長)
當山正堅(文化部長)
仲宗根源和(社会事業部長)
安谷屋正量(商工部長)
比嘉永元(農務部長)
仲村兼信(保安部長)
知花高直(労務部長)
護得久朝章(財務部長)
平田嗣一(逓信部長)
糸数昌保(水産部長)
(沖縄大百科事典より)
・「日本の天皇は引き続き残る。日本がポツダム宣言を承認しても心配はない。正午天皇が声明する」。この日朝、石川に集まった住民代表たちは、玉音放送の前に日本の敗戦を米軍から説明された。米軍と住民の橋渡し役となる行政機関「沖縄諮詢会(しじゅんかい)」発足に向けた仮会議だった。琉球政府につながる一歩となる(県史料)
(琉球新報「きょうの沖縄戦1945」より)
・胡屋。玉音放送を知らぬ人も少なくなかった。米軍テントに収容されていたひめゆり学徒の屋比久淑子さんは「日本は必ず勝つ」という思いから抜けられず、夜、米軍の祝砲を見ても、日本軍が再上陸したのだと思っていた。「戦争は終わりました」。ハワイ2世の言葉に泣いた。
(8/15/2017、朝日新聞記者・谷津憲郎記者ツイートより)
・沖縄住民で玉音放送を聞いたのはごく一部の人だけだった。
竹富島に住む当時8歳だった阿佐伊孫良さん。当時の竹富島の様子をこう話します。
阿佐伊孫良さん「おそらく(竹富島にほとんど)ラジオはなかったんじゃないかと思います。玉音放送は一切聞いていない」
当時、竹富島には大石隊という部隊が駐屯していましたが、その隊長すらも終戦の一報を電文で受け取ったのは、翌日の16日でした。
(8/15/2010、琉球朝日放送)
・米軍政府は、十五日午前、各収容所地区の住民代表を石川地区に集め、米軍の諮問機関、沖縄諮詢会を設立する方針を表明し、十五人の選出を命じた。
(8/15/2005、琉球新報「沖縄戦新聞」より)

日記:1945年8月15日(水曜日)
深夜0時から4時までの見張り任務中に、バケツで洗濯をした。任務が終わると、衣類をすすいだ。昼間は忙しくて洗濯する暇がない。日の出前に少し眠り、4時45分に「総員配置」の号令が鳴り響いた。乗組員ラウンジでミサに参加した。朝8時15分、私たちは沖縄に戻った。午前中にタンカーから給油を受けた。ラジオでトルーマン大統領が正式に戦争終結を宣言したと報じられた。あとは日本が平和条約に調印するだけだ。今週中のいずれかの日が「V-Jデー(対日戦勝記念日)」に制定されるという。この知らせが伝わると、港内のすべての船から汽笛が鳴り響き、乗組員全員が大声で歓声を上げた。私たちはタンカーの横に接岸しており、反対側には軽巡洋艦「デンバー」が停泊していた。
天気はまたしても暑くて晴れていた。午後5時、私たちは再び湾を離れた。危険を冒すつもりはない。星の下で眠るには良い夜だった。マイヤーズとレンテリアは、私があげたチョコレートバーを寝る前に楽しんでいた。私の妹メアリーは、私たちが駐留する場所をすべて知っている。なぜなら、それぞれの場所にコードネームを付けているからだ。検閲官の目の前でやっているが、彼には意味がわからない。
(「Pacific War Diary,1942-1945」より)
