『太宰治は、二度死んだ』――あとがき:フィクションと事実の狭間で(五)
本編『太宰治は、二度死んだ』(全31話)の「あとがき」エッセイ(五)です。
今回はいよいよ、田辺あつみが描かれていると考えられるテクストの具体的な分析に入ります。
先ずは『晩年』の巻頭を飾る『葉』です。これは、太宰がそれまで書き溜めた作品の断片を集めた作品で、次の一節が田辺あつみとの心中事件を描いていると考えられています。
満月の宵。光つては崩れ、うねつては崩れ、逆巻き、のた打つ波のなかで互ひに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意と振り切つたとき女は忽ち波に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった。
私の本編でも、またこの「あとがき」でも書いている通り、太宰とあつみは小動崎畳岩でカルモチンを飲んで自殺を図りました。ただ、それが小説家太宰治によって作品化された時、〈海への入水〉に変わったのです。
しかも、この一節が描き出す海はとても荒れていて、江ノ島というより日本海の荒波みたいです。これを引用していて、私はこの一節が太宰の別なテクストに似ていることに気づきました。
どのテクストでしょう? 誰でも一度は読んだことがある、あの名作『走れメロス』です。
メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には……
なんとなく似ていると思いませんか。
一人の作家のイマジネーションというのは、テクストは違っても、どこかに同じ匂いが残るような気がします。『葉』の一節がフィクションであることの、少なくとも傍証の一つにはなるのではないでしょうか。
次に、『道化の華』の有名な冒頭部分を見てみましょう。
「ここを過ぎて悲しみの市。」
友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕に問へ。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ。もつと言はうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。
ご存知の方が多いと思いますが、この〈僕〉は『人間失格』の主人公兼語り手と同じく、〈大庭葉蔵〉という名前です。
ここからがちょっと面白い話になるのですが、もし何の先入観もなしに『道化の華』を読んだ場合、これは単に〈大庭葉蔵〉という男と〈園〉という女性が起こした、〈虚構〉の心中事件の物語です。
ところが、多くの読者がこの物語を、太宰治自身の〈現実〉の心中事件の記録だと思って読んでいるのです。
――奇妙なことだと思いませんか?
前回も紹介した鈴木登美『語られた自己―日本近代の私小説言説』の中に、面白い指摘があります。
私小説は、作家の実際の個人的な体験を、単一の視点、単一の声により忠実に記録し、再現したものと見なされたが、花袋の『蒲団』、藤村の『春』(1908)、志賀直哉の『暗夜行路』(1921~37)をはじめ、私小説言説が典型的な私小説と規定したテクストの多くは実際には三人称で語られている。一般に信じられているところに反し、作中人物の声と視点は語り手のものとは必ずしも重なり合わないし、語り手と作者も必ずしも一致しない。
そうなんです! 日本近代文学史的知識として、多くの人が私小説の源流として思い浮かべるのは田山花袋の『蒲団』ですが、読んでみればわかる通り、実はあのテクストは〈竹中時雄〉という主人公を描いた三人称小説なんです!
他にも、ここで鈴木が挙げている島崎藤村の『春』は〈岸本捨吉〉という主人公による三人称小説、志賀直哉の『暗夜行路』は〈時任謙作〉という主人公による三人称小説なんです。
ところが、私たちはこれらのテクストを読む時、頭の中で無意識に〈竹中時雄〉を〈田山花袋〉、〈岸本捨吉〉を〈島崎藤村〉、〈時任謙作〉を〈志賀直哉〉に変換しています。
こうした〈読み〉の異常さは、これらのテクストが外国語に翻訳され、何の予備知識もない読者の目にどう映るかを考えてみればよくわかると思います。
私たちはこうした極めて特殊な〈読み〉を、殆ど無意識に行っているのです。
しかも、〈田山花袋〉、〈島崎藤村〉、〈志賀直哉〉になぜ〈 〉が付いているかと言うと、前回引用した安藤宏の指摘通り、それぞれ、田山花袋という作家が演じている〈田山花袋〉、島崎藤村が演じている〈島崎藤村〉、志賀直哉が演じている〈志賀直哉〉であって、決して作者とイコールではないからです。しかも、これらのイメージは、作者と読者が共同で創り出したものなのです(ああ、ややこしい!笑)。
日本近代文学は、今でもよく読まれています。文豪と呼ばれる作家の作品はテクストだけではなく、映画やドラマなどの力もあって、知らず知らずのうちに私たちの中に吸収され、結果、私たちは殆ど無意識のうちに、これらの文豪に対して〈あるイメージ〉を持つようになります。
だから、テクストの中にその作者と似た人物が登場した時、たとえそれが三人称小説であっても、頭の中で無意識にその人物を〈作者自身〉に変換してしまいます。そして、テクストの内容を作者の実体験だと思い込んでしまうのです。
『道化の華』というテクストを読みながら、〈大庭葉蔵〉を〈太宰治〉に変換してしまう私たちは、当然〈園〉も〈田辺あつみ〉に変換――ちょ、ちょっと待って下さい!
〈園〉は本当に、〈田辺あつみ〉に変換されるのでしょうか?
〈田辺あつみ〉という名前は、太宰治の研究史をある程度押さえた人は知っています。でも、一般的にはどうなのでしょう?
なんとなく、太宰が女性と心中事件を起こしたことは知っている。でも、名前は知らないかもしれません。いや、知らない人の方がずっと多いのではないでしょうか。
前回紹介したS文庫の旧版と新版の〈著者紹介〉に、この心中事件の相手はどう書かれていたでしょうか。
バーの女。
酒場の女。
まるで名前がない人のようです。しかも、『葉』や『道化の華』において、男の方は〈偽悪的〉とも言えるイメージで描かれていることに注目して下さい。
俺が故意と振り切つたとき女は忽ち波に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかった。(『葉』)
僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は惡魔の傲慢さもて、われよみがへるとも園は死ね、と願つたのだ。(『道化の華』)
この〈園〉を〈バーの女〉あるいは〈酒場の女〉に変換して読んでみて下さい。
読者の中に醸成されるイメージは、なんだかハードボイルドの主人公のようで、正に無頼派作家〈太宰治〉の面目躍如というところです。
つまり、このように言えるのではないでしょうか。
S文庫の旧・新版の〈著者紹介〉は、著者の真実の姿を伝えようとするものではなく、むしろフィクションであるテクストの内容を補強し、〈太宰治伝説〉または〈太宰治神話〉を創り出すために存在しているのだ、と。
次に『東京八景』から引用します。このテクストにより、私が密かに〈ハードボイルド太宰〉と呼ぶところの無頼派イメージが完成されます。引用部は、あえて筑摩書房版全集でなく、S文庫旧版に拠りました。
わざとかって? はい、わざとです。
銀座裏のバアの女が、私を好いた。好かれる時期が、誰にだって一度ある。不潔な時期だ。私は、この女を誘って一緒に鎌倉の海へはいった。(中略)女は死んで、私は生きた。死んだひとの事に就いては、以前に何度も書いた。私の生涯の、汚点である。
ワンセンテンスが非常に短く、読点が多い。ぽきぽきと枝を折るような乾いた調子と非情さ。典型的なハードボイルドの文体だと言えます。
さて次回ですが、ついに『人間失格』の登場です!
太宰畢生の代表作であり、同時に日本近代文学の傑作とされるテクストに、この心中事件がどう描かれているのかを見ていきましょう。
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昭和五年、太宰治(帝大生・津島修治)が銀座のカフェーの女給・田辺あつみ(当時満年齢17歳)と起こした腰越心中事件。本作は数々の資料を基に、…
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