【短編小説】俺に“彼女がいる”って、誰が言った?
「……チェキは1枚だけな。今日は我慢」
そう小声で自分に言い聞かせながら、物販列に並ぶ。
地下アイドル・ナギサちゃんのライブは今日で5回目。
チェキ券は1枚1,000円。トーク付き。
財布には2枚分の余裕があったけど……今月のスマホ代がまだだった。
「だ、大丈夫。今月こそ、やりくりするって決めたし」
そう言いながら、気づけば手には2枚の券。
今日のナギサちゃんはハーフツイン。……買わざるを得なかった。
グッズ売り場では缶バッジとキーホルダーだけを購入。
Tシャツは買わない。誰かに見られたら恥ずかしいし。
──いや、そもそも“誰か”って誰だっけ。
帰りにグッズ袋をカバンの奥の方に滑り込ませ、
上野駅から高崎行きの電車に乗った。
電車の窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。
さっき見たナギサちゃんのストーリーには「今日もありがとう🩷」の文字。
高揚感と現実が、じわじわと混ざっていく。
──ふと、母の言葉を思い出す。
「ねぇ、彼女できたの?」
……声だけで、なぜか心がザワつく。
俺は一拍置いて、声を張らずに答える。
「……うん。できたよ」
数秒の沈黙のあと、嬉しそうな声が返ってきた。
「まぁ!どんな子?今度、家に連れてきなさいね」
「いや……まだ付き合って一年も経ってないし、
彼女に負担かけたくないからさ。もうちょっと経ったら、ね」
我ながら、流れるような嘘だった。
そんなことを考えていたら、いつの間にか眠っていたらしい。
スマホのアラームで目が覚めた。
「あっ。もう少しで高崎駅に着く時間だ」
俺は慌てて、荷物をまとめて降りる準備をした。
夜のスーパーで、特売セールのカップラーメンを2つ買った。
今月の昼飯は、これで乗り切ると決めている。
家の鍵を開けて部屋に入ると、中は真っ暗だった。
照明のひもを引いて、蛍光灯がパッと灯る。
「……はー……」と小さくため息を吐きながら、
俺はそのまま学習机に向かった。
小学生の頃から使っている机。
角にはまだ、ビックリマンシールが貼ってある。
色あせて端がめくれてるけど、なぜかそのままにしてある。
今日のチェキをそっと机の上に置き、
ベッドにごろりと転がる。
視線の先には、めくり忘れたままのカレンダー。
2025年、8月。
そこには、誕生日に小さな赤丸が付いていた。
「……今年で、50歳か〜……」
物思いにふけってると一階より母の声が聞こえた。
「ご飯できたわよ」
「はーい、ママ」
俺はゆっくりと身体を起こし、
廊下を抜けてリビングへと向かう。
テーブルには味噌汁の湯気。煮物とサラダが並んでいた。
母が台所から小鉢を運びながら、ぽつりと聞いてくる。
「今日はどこか行ってたの?」
「うん、彼女と、上野の国立博物館に行ってきた」
「へぇ、博物館?文化的じゃない」
「最近アートにハマってるらしくてさ。
浮世絵がどうしても見たいって言うから……
ああいうとこ、久々だったけど、意外と面白かったよ」
「ふふっ。素敵な子なのね」
「うん。中でも、歌川清麿のガシャドクロが特にお気に入りでさ。
あれ見た瞬間、ちょっとテンション上がってたよ。
“でっか!”って言ってて、可愛かったな……」
サラダを俺の皿にのせながら、母は笑った。
「ふふっ。素敵な子ね。
……今度、うちに連れてきなさいね?」
俺は、味噌汁の湯気越しに笑ってみせた。
「うん。彼女にも、伝えとくよ」
※注:ガシャドクロの元ネタは 歌川国芳(くによし) の《相馬の古内裏》。作中の「清麿」は完全に主人公の勘違いです。
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