【連載小説】「みつばち奇想曲(カプリース)」第六話
「松永さんは、嘘つきね。私のために雑誌をプレゼントしてくれるって約束したじゃない。それができないなら、こんな紙、あってもなくても同じよ」
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
白雪がうずくまって泣き始めると、クララは「ふん」と鼻で笑ってから「なにが『白雪』よ」と言って、跡形もない「外出希望届」を白雪の頭上に浴びせながら奈那と愛果を連れて教室へと帰っていった。
「好きで『白雪』なんて名になったわけじゃない」と、心の中で答える。
浅黒い肌も、骨ばった細い手足も、百五十センチに満たない低い背丈も、どれも両親から受け継いだものだ。なぜ両親は自分に「白雪」という外見と正反対の名前をつけてしまったのかと疎ましくなる。「白雪」なんてお姫様の名前は、クララのように肌が透き通るように白い女の子に付いていればよかった。そうしたら、きっとこうやって誰かに標的にされることもなかったのだ。
クララに紙を奪われた際に切れた人差し指の腹から、鮮血が細い線を描いて流れていく。雪のように白い指先であったら血の色さえも映えて美しいのだろう。自分の人差し指さえも恨めしい。
「白雪、大丈夫⁉ 探したんだよ」
聞きなれた声がして顔を上げると、クラスメイトの本村美憂と岡崎友梨が心配そうな顔で見おろしていた。
誰かが自分を探しに来てくれるなんて、これまであっただろうか。しかも、まだ昼前の、人気のない下駄箱の隅にまで。
「泣いてるじゃない! 美憂、全然大丈夫じゃないって」
「わぁー、どうしたの? 誰かにいじめられた?」
下駄箱の陰でうずくまり涙を流す白雪を見て、美憂と友梨は慌てふためく。
「もう大丈夫。心配かけて、ごめんね」
ふたりの姿を見て安心した白雪は、眼鏡の下の涙を拭ってから笑顔を向けた。
「本当に? 私たちには話していいんだよ。どうせこの学校に馴染んでないんだから」
「そうそう、私も美憂も、ここのお嬢様方から避けられてるもんね。あはは」
「そんなことないわ。まだ皆、ふたりがどんな子か知らないだけよ」
「そんな風に言ってくれるの、白雪だけだよー」
「ほんと。ありがとうね、白雪」
美憂と友梨は、白雪に向かってそれぞれ手を伸ばす。
「こちらこそ、迎えに来てくれてありがとう」
ふたりの手を掴み立ち上がると、先ほどまでの情けない気持ちが少し小さくなる。ふたりに呼んでもらえる「白雪」という名は、クララたちから呼ばれる「それ」とはまるで違うもののようだ。
ちょうどその時、授業の始まりを知らせる鐘の音が鳴った。
「やばい! 音楽室まで走っていこう! 白雪、もう移動教室の前に急にいなくなったら駄目だからね」
白雪の手を引いて、美憂は走り出す。
この学院に入ってから何年もの間、誰かに手を握ってもらえることなどなかった。今まで知ることのなかった希望に満ちた美憂の力強い手を、ゆっくりと握り返した。
クララに目を付けられ、無理強いをされるようになったのは、中等部二年生の春からだ。老舗デパート経営一族であるクララは、常にクラスのヒエラルキーのトップにおり、大人しく目立つことが苦手な性格で、一代で中堅の商店を営む親を持つ白雪を、自分の召使いのように扱った。クラスメイトは自分がその対象となることを避けるため、何があっても見て見ぬふりをする。担任教師でさえ、「檜崎さんに仲良くしてもらえて良かったわね」と、自分の都合の良いようにしか解釈をしなかった。
クララはいわばクラスの「女王蜂」だ。とりまきの奈那や愛果を始め、クラスメイトらは皆、彼女のご機嫌を取るために高級菓子や献上品を捧げる「働き蜂」。そして、自分は働き蜂にさえなれない、ただの「蟻」だった。
高等部に上がり、クララとはクラスが離れた現在でさえ、時々呼び出されては以前よりも一層リスクの高い難題を要求される。「卒業するまで、いや、付属の大学に進学した場合には、これからまだ七年間も彼女たちの『働き蟻』でいなければならないのか」と想像すると、湧いてくるのは絶望だけだった。
しかし、ちょうどひと月前、外部生として学院にやってきた美憂と友梨との出会いが、白雪の運命を変える。
「外ではあんなに評判がいいのに、実際に入ってみると違和感あるよね」
高等部に上がって間もない頃、クラスでこんな会話が聞こえた。思わず振り返って声の主を探すと、そこにいたのはどこか俯瞰して周りを観察しているようなボブヘアーの少女と、栗色のポニーテールの髪とそばかすの溌溂とした少女だった。美憂と友梨である。
ふたりの雰囲気は明らかに他の生徒とは異なっていたが、特に美憂は一味違う感性を持っていた。
「なんていうか……、デルヴォーの絵に出てくる女の子たちみたい」
「あはは、なにそれ。絵になる美少女ばっかってこと? まあ、確かに多いけど」
友梨は美憂の言葉を冗談と捉えて笑っていたが、白雪はすぐに「デルヴォー」という画家の絵を探しに図書館へと向かった。
ポール・デルヴォーは、ベルギーの画家だ。彼の絵の中には、ファンタジックな世界に鉄道や近代建築などの現実世界が入り混じり、そこに半裸の女たち(全裸に近い者もいる)が立っていたり、座っていたりする不思議な空間が広がっている。それは美しさや面白さを感じさせもするが、見る者の心に残るのは「違和感」だ。どこかへ向かっているようにもみえる美しい女たちは、誰一人として他者と視線を合わせない。微かな笑みを浮かべながらも見つめているのは虚空ばかりで、誰もが他者に対し無関心を貫いている。
「なんていうか……、デルヴォーの絵に出てくる女の子たちみたい」
そう、美憂の言うとおりだ。自分をちゃんと見てくれる人間など、この学院には誰も存在しなかった。この絵の中の女たちのように。
上品さと優美さに隠された「真実」を、見抜くことのできる人間がようやく現れたのだ──。白雪は閉館間際の図書館の片隅で、ひっそりと涙を流した。
美憂が、教室でひとり取り残されているたった一人の内部生に気がつき、友梨と共にその子に声を掛け、そして、「白雪」とその名前を呼ぶまでに時間はかからなかった。
目を合わせて話し、そして、笑いかけてくれる美憂と友梨の「普通」の感覚は、白雪の救いとなるに十分だった。
(つづく)
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