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MVP ESSAYS | 思考は再現できない

私は備忘録をよく書く。
閃いたこと。 違和感を覚えたこと。 何かが繋がった瞬間。
後から読み返せば、再びそこへ戻れると思うからだ。

しかし実際には、なかなかそうならないことが多い。
確かに文章は残っている。
当時書いた言葉も、 結論も、 考察も、 そこに存在している。
なのに、読んだ瞬間に違和感が出ることがある。

「なぜ私はこれを書いたのだろう」

書いた本人であるはずなのに、 その思考へ辿り着いた理由が見えない。
思考内容は残っているのに、思考そのものは消えている。
しばらく考えていて気付いた。

失われているのは情報ではない。
関係性なのだ。

思考は単独では存在しない。
ある違和感があり、 その違和感が別の記憶と繋がり、 さらに別の体験へ接続される。

そうして一つの考えが現れる。
私たちが「閃き」と呼ぶものは、 完成した答えではなく、 むしろその接続の過程そのものなのかもしれない。

そう考えると、記憶についても少し違った見方ができる。
私たちは記憶を、過去の情報を保存する仕組みだと思っている。
しかし実際には、思い出そうとしても思い出せないことがある。
逆に、ある匂いや音楽をきっかけに、 突然忘れていたはずの記憶が蘇ることもある。

もし記憶が単なる情報の保存なら、 そのようなことは起こらないはずだ。
保存されているなら、いつでも取り出せるはずだからだ。
むしろ私たちが保存しているのは、 情報そのものではなく、 その情報へ辿り着くための接続なのかもしれない。

思い出すという行為は、 倉庫からデータを取り出すことではない。
かつて存在した関係性を、 もう一度辿り直す行為に近い。
そしてその接続は、 時間と共に変化する。

新しい経験が加わり、 新しい知識が増え、 新しい関係性が形成される。
すると以前と同じ記憶であっても、 見え方は少しずつ変わる。

思い出は保存されるのではない。
再構成される。

だから過去の自分が書いた備忘録を読んだ時、 私は時々驚く。
そこに書かれている内容は理解できる。
しかし、その時見えていた世界が理解できない。

それは記憶が失われたからではない。
その記憶を支えていた接続の多くが、 既に別の形へ更新されているからだ。

そのように考えると、 忘却についても少し違った見方ができる。
私たちは忘れることを失うことだと思っている。
覚えていることは良いことで、 忘れることは悪いこと。
そんな前提をどこかで持っている。
しかし本当にそうだろうか。

もし人間が経験した全てを、 一切失うことなく保持し続けたらどうなるだろう。
過去の出来事。 過去の感情。 過去の失敗。 過去の怒り。
それら全てが完全な形で残り続けたとしたら、 私たちは新しい何かを受け入れられるだろうか。

新しい接続が生まれるためには、 古い接続が弱まる必要がある。
新しい道を作るためには、 使われなくなった道が自然に消えていく必要がある。

忘却とは、 記憶の失敗ではなく、更新のための余白なのかもしれない。
だから人は忘れる。

そして物理的限界もあるけれど、機能的に忘れながら生きている。
しかし、完全には消えない。

何かの拍子に昔の景色を見て、 突然思い出すことがある。
昔聞いていた音楽を耳にして、 当時の感情が一気に蘇ることもある。
その時起きているのは、 失われた記憶の回収ではない。

かつて存在した接続が、 偶然もう一度成立しただけなのかもしれない。
だから記憶は保存ではなく再構成であり、 思い出すという行為は、 過去へのアクセスではなく、 現在の自分による再接続なのだろう。

そしてここで、 私は備忘録の役割を少し違ったものとして見るようになった。

備忘録は忘れないための道具ではない。
過去を固定するための道具でもない。
未来の自分が、 かつて存在した接続へもう一度辿り着くための、 小さな目印なのだ。

ここまで考えていて、 ふと不思議なことに気付く。
もし記憶が固定された情報ではなく、 絶えず再構成される接続のネットワークなのだとしたら、

「私」とは何なのだろう。

昨日の私と今日の私は同じ人間だ。
多くの人はそう考える。
しかし実際には、 過去考えていたことの多くを忘れ、 重要だったものがは重要ではなくなり、 新しい経験によって世界の見え方も少しずつ変わっていく。

一年前の自分を思い返すと、 まるで別人のように感じることさえある。
それでも私たちは、 それを同じ「私」だと呼んでいる。
いったいどうして。

私たちは、 固定された何かを保持しているのではない。変化し続ける接続の中に、 ある種の継続性を見出しているだけなのではないか。

川を見ていると、ふとこんなことを考える。水は常に留まることなく流れてゆく。
先日私の顔を映し出した水は、ここにはない。
それでも私たちは、その川を同じ川として認識している。
そこに固定された実体があるからではない。
変化し続けながら、 なお継続している何かを感じるからだ。

人間にも同じ事が言えるのではないか。
記憶は変わり、価値観も変わる。理解も接続も思考も変わる。
それでもなお、 私は私であり続ける。



主体とは、 変化しない何かではなく、変化し続ける関係性の中で維持される継続性なのかもしれない。

そう考えると、 備忘録を書く理由も少し変わってくる。
私は過去を、過去の自分を固定しておきたいわけではない。
変わり続ける自分の中で、かつて抱いた景色や違和感、その瞬間にどんな接続が生まれていたのか。その痕跡を残しておきたい。

これから先私がそれを読んだ時、全く同じ場所、同じ思考をきっと再現できない。
しかしその痕跡は、 新しい接続となって更新されながら思考を繋ぐ。

備忘録とは、 過去を保存するためのものではない。
未来に向けて、 可能性の痕跡を残す行為なのだと思う。

これは、 更新し続ける私と、 再構成され続ける接続の痕跡についてのおはなし。


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