概念が抜け落ちる世界の話

【あらすじ】
田丸恵美が表情の概念を欠落してしまい、夫の田丸秀悟は表情を失った恵美をサポートする日々を送る。
そんな中、秀悟も一時的に方向の概念を欠落し、恵美の不安をより理解する。
順調にリハビリを続ける恵美は、価値観が同じ者同士であれば欠落した概念を吸収してしまうことがあるという論文を見つけ、表情に出ない嬉しさを滲ませつつ、またリハビリを含んだ日常へと戻っていく。

【本編】
「すいません、落としましたよ」
「ああ、これは失礼しました、ありがとうございます」
足元には硫黄のような結晶が落ちていた。アボカドほどの大きさ、ゴツゴツとした質感のそれを手に取り、僕-田丸秀悟-は両手で握り込んだ。
それでは、と指摘をした通行人の青年に背を向けた。歩き始めた数秒の後、その塊は両手の中からすっかり消えていた。

帰宅した僕は、妻の恵美へ顛末を伝えながらスーツを脱いだ。
「親切な人がいて良かったね、そのままだと大変だったよ」
恵美はPCモニターに向かい在宅業務を進めながら答えた。
「手続きと再構築も、しなくて済んだね」
「ああ、助かったよ」
Tシャツに着替え台所に歩きながら、僕は続けた。
「ところで、今日は何を食べたい?」
「コキーユ・サン・ジャック・ポワレ」
「今はなんの仕事してるの?」
「フランス料理屋のメニューデザインだよ」
「なるほどね、そのメニューは日本語でなんていうの?」
「カリっとなるまで炒めたホタテ」
冷凍庫を開き、冷凍ホタテがあることを確認した。
「ホタテなんていつ買ったの?」
「今朝だよ」
モニターの前から微動だにしない周到な妻に微笑みを向け、ホタテの解凍を始めた。

「表情の概念が消えています」
心療内科でそう告げられたのは半年前のことだ。
「概念欠落症と呼ばれています。Lack of concept syndromeとも。奥様の年齢であれば若年性の概念欠落症に分類されます」
概念が、欠落する?と混乱しながら目の前の医師に尋ねた。
「珍しいのですか?」
カルテから目を離し、座り心地の良さそうな椅子をこちらに向け、医師は答えた。
「高齢者では珍しくありませんでしたが、昨今は若い方も非常に多く発症しています」
「治るのでしょうか?」
「それが難しく、たとえば計算という概念であれば、欠如したものは概念だけですので、記憶は残っています。そこから概念を再構築できるので問題ないのですが」
「表情だと難しいのですか?」
「意図して表情を作るという行為を日常的に行なっていれば、記憶が優位になるので再構築は可能ですが、先日行ったHTPPテストとWAIS-Ⅳ、つまりいわゆる心理テストですが、その結果を見ると奥様はあまり感情を隠さなかったようですね」
そうだったのか。無表情のままこちらを見ている恵美の手を握った。
「ご家庭ではいかがでしたか?」
「そうですね、たまにイタズラを仕掛けて笑ったり、拗ねたり、表情豊かでした」
走馬灯のように日常を思い出しながら声を絞り出した。
「なるほど、それでは対症療法ではありますが、そのままの日常を過ごしていただき、再構築ができるようなきっかけを探していただくことになります」
「もっと確実に治るような手段はありませんか?」
「欠落した概念を見つけることができれば、別の治療方法も期待できます」
概念を見つける?と脳内で反芻していると、医師がタブレットを見せてきた。
「このような物です」
「大きな金平糖ですか?」
「なるほど、確かにそうも見えます。人によっては宝石とか、そういうものにも例えられます」
タブレットに表示されたその物を眺めたまま、医師の話を聞いていた。
「その物質ですが、それが概念です。脳神経は電気信号を使い思考していますが、その電気はナトリウムとカリウムのイオンが移動して発生しています。ある概念に対して電気が一定以上の交信を繰り返すと、そこで使われたナトリウムとカリウムが体外に放出されます」
「どこから出るんですか?」
医師は書籍を取り出して説明を続けた。
「こちらは医学書ですが、このようにイオンが通れる道があれば、そこから一気に放出されます」
「妻はとくにそのような傷はないのですが」
「骨の間隙や毛穴など、分子が通れるような場所ならどこでも可能性はありますので、外傷がなくてもありえます」
書籍を本棚に戻し、医師は看護師を呼んだ。
「田丸さん、それでは処置室を空けておりますので、そちらで今後の話をいたしましょう」

看護師に案内され、僕と恵美は処置室へと歩いた。
前を歩く恵美は悲しげな雰囲気を漂わせていたが、表情は見えない。
廊下を先導して歩く看護師は、リハビリに近いものを一通りレッスンしますねと言いながら白い扉を開けた。
背もたれのないベンチがあり、そこに座り指示を受けた。
曰く、抜け落ちた概念を復活させるのではなく、別の脳細胞を使って概念を再習得するのだという。つまりその概念だけは白紙の状態らしい。
記憶を頼りに復活させるのが常道ではあるが、恵美の表情は無意識下で動いていたものなのでそれは通用しないそうだ。表情筋の機能低下を防ぐためにまずは顔の筋肉を動かすこと、そして笑顔を作る行為を覚えることから始めるそうだ。
「それではまず、この表情を真似してみてください」
看護師はタブレットを恵美に見せた。
「表情っていうのは、顔のパーツの動きのことで、例えばこの写真の人は口を開けて、頬が上がっています」
「この顔の動きを真似したらいいの?」
恵美は僕と看護師にそう確認した。
「そうだよ、やってみてくれ」
「分かった」
口角をたどたどしく持ち上げ、一呼吸を置いて頬が上がり目が細くなる。
「これでいい?そんなに見られると恥ずかしいよ」
羞恥という感情を失念していたと反省する。そうだ、表情がなくとも感情はある。つい先ほど廊下で悲しそうな雰囲気を察したと言うのに。
「表情と感情はリンクしてますからね、少し混乱してしまうかもしれません」
看護師は耳元でそう囁いた。
「普段通りの恵美さんに接するようにしてください」
なるほど、なかなか難しいものだ。
「恵美、ごめん、ちょっと僕も急いていたみたいだ」
恵美は口角だけを持ち上げて答えた。
「ううん、大丈夫」

周知されていないだけで、概念が落ちることは確かに珍しくないようだった。
有志を募って結成された互助会もあるらしく、白地に橙色の三角マークのシンボルをカバンにつけていると、何かしらの概念が欠落しているサインになるそうだ。
「これ、付けておくね」
まっすぐな声色で恵美はそう言った。
「そうだね、その方がいい」
表情を失くすということは、声色まで変わってしまうのかと気づいた。
病院で看護師から最後に渡されたパンフレットとキーホルダーを、恵美は眺めている。役所へ申請するための診断書も一緒にもらった。季節は春。歩いていると少し暑く感じる。晴れ渡った空の青と住宅の塀から覗く若葉の中、交通標識が浮き上がったコントラストを描く。
また夏が来る。今年はどこに行こうか。恵美がこんな状況だし、思い切って旅館で家族風呂でも借りようか。気分転換にもいいし、人の目も気にしなくていい。
「なにか蹴った」
後ろにいる恵美に引っ張られた。振り向いた途端、視界がぐらついた。
「これ何かな?」
そう尋ねる恵美の声だけが届いた。徐々に視界は戻ってきた。足元にある塊を眺め、それが件の概念の結晶であろう可能性を認めた。
「これ、僕のかな?」
「分からないけど、前を歩いてた秀悟くんは見なかったでしょう?だから、もしかしたらそうかも」
これが概念だとして、ならば何が欠落してしまったのだろうか。不安を抱えたことにより、感情の類ではなさそうだと安堵を同時に覚えた。
「恵美、僕になにか変化はある?」
恵美は僕を一回りしながら観察し、特に変わったところはないと教えてくれた。
「それじゃあ、ひとまずこの塊を持って病院に行って診てもらおう」
「そうね、それがいいかも」
恵美は塊を手に取った。
踵を返し、病院へ向かおうとしたところで、欠落した概念を自覚した。
「恵美、どうやらこの塊は、やはり僕のものみたいだ」

ここの近くで起きたのが不幸中の幸いでしたね、と医師は言った。
「歩くこともできますし、歩いた道の記憶もあるんです。しかしそれだけで、なんというか、普段なら目的地を決めたらもっといろんなことを同時に考えていたはずなんです」
カルテに目を落としながら医師は言った。
「おそらく方向概念の欠落です」
「方向感覚が欠落したってことですか?」
「いえ、あくまでこの症状は概念のみの欠落です、感覚が消えることはありません」
例えば、と医師は話を続けた。
「この地図はこの病院の周辺図です、この最寄りのコンビニがありますね、方向としてはどちらにあると思いますか?」
「ええと、すみません、方向は確か、ええ」
方向という言葉の意味をすぐ理解できなくなっていた。確か東西南北があって、北が地図の上で、そこを基準にするとこのコンビニは右側だから、右は東だったか、だから……
「はい、よろしいでしょう」
医師が口を挟んだ。
「今、田丸さん……秀悟さんは、おそらく記憶に残っている方向という言葉や地図の読み方から概念を再構築していました。こうすればおおよそ元通りか日常で困らない程度までは快復します」
普段使わない部分の脳を使ったような疲労感の中、僕は医師の話に頷いた。
「概念の再構築を知っていただこうと思い、少し遠回りをさせていただきました。奥さんの感覚がまさにそのような状態です」
ハッとした。帰路でずっとパンフレットを読んでいた恵美は、なにを失くしたのか理解すらできない状況で不安だっただろう。
「さて、今回は秀悟さんが落とされた概念結晶がありますので、こちらを両手で握り込んでください。目眩がしますが、一瞬で済むはずです」
言われた通りに、医師から手渡された結晶を握り込んだ。脳のごく一部がかき混ぜられたような感覚に陥ったが、医師の言葉の通りすぐに治った。
「多少の混乱はあると思いますが、さて、先ほどのコンビニはどちらでしょうか」
目眩の瞬間に頭を抱えていたようだった。頭から手を離し、東を指をさした。
「コンビニは向こうです」
「その通りです、概念が快復いたしました。このように、落とした概念結晶があれば快復は容易ですが、基本的に本人のものでなければ吸収されませんので、今後また落とされた際にはご注意ください」
「また落ちるんですか?」
不安になりながら尋ねると、医師は頷きながら、癖になりやすいのでと答えた。

「久しぶりにお揃いだね」
そう言った恵美は、無表情だがとても眩しかった。
「確かにそうだね、いつ以来だろう」
帰り際、僕もパンフレットとキーホルダーを手渡された。欠落癖のある者も付けていいとのことだ。
「確か大学の頃に一緒に見たバンドのTシャツを買ったから、それ以来じゃない?」
もう7年も前のことなのに、鮮明に思い出せる。
「そうだった、付き合う前に僕が誘ったんだ、懐かしいな」
「結婚指輪より早くお揃いができちゃったね」
「来週には出来上がるって連絡があったよ、もう少しズレてたらよかったんだけど」
僕らは2ヶ月前に入籍した。プロポーズから入籍までが早すぎて、結婚指輪の用意が間に合っていなかった。
「そこの店でいいかな」
鏡を見て周囲の人と自分の表情の差を把握することも、リハビリのメニューに含まれていた。なるべく大きな、見ようと思えばすぐに目に入る程度の鏡を探す。
「姿見がいいよな、なるべく安定感のあるやつにしよう」
170cm程度の高さ、白を基調としたこれなら、部屋の印象にも恵美の好みにも合うだろう。
「うん、それで大丈夫」
「ひとつで足りるかな、玄関にはもう置いてあるけど、リビングと寝室と、キッチンにもあった方がいいかな」
そんなに必要ないよと恵美は答えた。普段ならこの場で笑っているはずの恵美は、無表情で、無機質に、そう答えた。
商品札を手に取り、レジへ向かった。会計の際に、配達をお願いした。明日の午前中には届くそうだ。
「念の為、明日も休もうか」
概念欠落症の診断を受けると、少額だが補助を受けられるそうだ。また企業への休暇申請の融通も効きやすくなるという話もあった。
「そうだね、鏡を受け取ったら申請に行きましょ」

家に着くと、恵美はすぐテレビを点けた。衛星放送からヒューマンドラマ専門チャンネルを選択し、ソファに座った。
「今日はちょっと疲れたから、夕食は出前でもいい?」
「もちろん」
画面を見つめながら、恵美は答えた。
いつのまにか手鏡を持ち、画面の女優と自分の顔を見比べている。さっそくリハビリを始めたのだろう。
あまり急がなくても大丈夫だよ、と言いかけて、やめた。自分の概念を落とした時の不安は、もう理解した。
近所の蕎麦屋に出前を頼み、海老天と蕎麦が届いた。
「恵美、届いたよ、ご飯にしよう」
そう伝えるとようやくこちらを向いてくれた。引き攣った笑顔を貼り付けていた。
「海老天だ、ありがとう」
そう言う恵美を見て僕は居た堪れなくなった。
「ちょっとくらい気分転換しよう、ご飯の時くらいいいだろ」
そうね、と恵美は無表情に戻った。蕎麦をすすりながら談笑でもと思っていたが、笑えない恵美を見るとそんな気分にもなれなかった。
「お医者さんの話だと、落とした概念はそのうち昇華して無くなってしまうらしいけど、家で落としていたらどこかに落ちているかもしれないな」
「あとで探してみる」
そう告げると最後に残した海老天を齧り、ソファに戻った。食器を洗って玄関に出し、僕は寝室を見て回った。

「起きなよ」
回らない頭を起こし、ベッドサイドの恵美をぼんやりと眺めた。
「鏡、届いたよ」
そう僕に告げると、恵美は寝室から出て行った。エプロンを付けていたので朝食を作ってくれていたのだろう。時計に目をやる。8:48。少し寝過ぎた。
「開梱しておくよ」
パジャマ姿のままカッターを取り出し、ダンボールを開けた。テーブルにはレトルトのオニオンスープとジャムの瓶が置かれていた。
「もうすぐトーストも焼き上がるから、そしたらすぐ食べて」
了解と力なく返事をし、開梱を続けた。2枚の姿見の保護フィルムを剥がしたタイミングでトーストができた音が響いた。
「食べたらすぐ身支度してね、お役所は10時からだよ」
スープを飲みながら分かったと答え、数日前までの朝食と変わらない景色を噛み締めた。
「ここ数日、ちょっと元気無かったからね、今日から元通りだよ」
そう言う恵美は珍しく無理をしていそうだったが、しかし表情はなにも読み取らせてくれない。
「こういう時はどんな顔になればいいんだっけ」
「まだ笑顔は練習が必要だから、今のままでいいよ」
そう笑うと小突かれた。見てろよ、とも。

「それでは少々お掛けになってお待ちください」
職員にそう促され、少し硬い椅子で待っている。無機質な内装、縁のなさそうな窓口がたくさん並んでいる。上のフロアには一体何があるのだろうか、など考えながら、病院で貰った互助会のパンフレットを眺めつつ、役所の入り口にあった補助金申請の資料と照らし合わせていた。
「秀悟か?」
顔を上げると旧知の友がいた。
「聡志?久しぶりだなぁ」
椅子から立ち上がり、握手を交わし、4年前の面影をあちこちに残した旧友を懐かしんだ。
「今日はどうしたんだ?そちらは彼女さんだろ?そろそろ結婚する気になったのか?」
屈託のない笑顔を僕に向け、精悍な体躯を控えめに動かしながら訪ねてきた。大柄な自分が他人へ圧力をかけることを、聡志は自覚している。だからこいつは小動物のような動きをする。
「ああ、そうか、すまない、連絡が遅くなったな」
「というとつまり?」
爽やかな笑顔がにやつく嗤いへと変わった。
「実は2ヶ月前に入籍したんだ。だからもう、恵美は妻だ」
恵美に視線を投げ、それを受け取った恵美は会釈をした。
「そうかそうか、めでたいな!結婚式は?いつするんだ?どんな余興でもやるぞ」
まぁ落ち着けと宥め、式の予定は今の所ないと伝えた。
「それより聡志、お前も用事があるんだろう?今夜にでも連絡するから、今はそっちを済ませておけよ」
確かに、と聡志は爽やかに笑い、それじゃと上階へ登って行った。
「聡志さん、確か高校の同級生の人だっけ」
一呼吸の後に恵美が口を開いた。
「そう、部活が同じで、あいつはゴールキーパーだった」
「とっても似合うね」
「そうだろう、いいやつなんだ」
秀悟くんは友達が多いね、と言われたが、言外を察することができなかった。
「地元だから」
察していたかのように職員から声をかけられた。
申請はつつがなく受理されたようだ。
「それではカードを発行いたしますので、こちらの申請書にご署名をお願いいたします」
記入台に二人で並び、同じ苗字を記入する。田丸。ルーツであるはずの三重県だが、その苗字は少し珍しがられた。大学時代を過ごした千葉では、同じ苗字の人に会ったこともあるが、ここでは親戚しかいない。田丸恵美、妻の名前が反対じゃなく良かったなどと考えながら、記入を終えてまたしばらく待った。
「お待たせしました」
それでは、とカードと申請後についての資料を受け取った。この後は会社への申請が必要とのことだ。補助についてはこの後また別の窓口へ行く必要がある。LOCSと書かれた書類を読みながら、また呼び出されるのを待つ。
Lack of concept syndrome、通称LOCSと呼ばれているらしい。ロックスか。赤十字が発行した冊子と、厚労省の冊子があった。まだ周知が進んでいないのに法整備がされているのは、やはり高齢者に多い症状だからだろうか。若年層で発症した場合は在宅ワークを推奨しているらしい。恵美は在宅でも問題なく業務は進むだろう。それに今の恵美が社会に出たらどうなるだろう。謂れのない扱いを受けるのではないか。そうか、これも周知が進まない理由のひとつか。
僕はどうだろう、方向の概念がまた落ちても、時間はかかるが帰宅はできるだろう。帰宅さえできればなんてことはない。バックエンドのエンジニア職だし、サーバ室の近くにいた方がいい。それに人ともそれほど会うことはない。そうだな、ひとまず恵美の会社との交渉が先決だ。
「田丸さん、こちらへどうぞ」
今度は補助金申請の書類を記入した。世帯主、秀悟。被補助者、秀悟・恵美。名前を並べて書くことにすら、まだ感動を覚える。結婚した実感が、日常ではなく役所の書類で湧くなんて、どうかしている。
「それでは来月より毎月10日、土日祝日の場合はその前の日にご指定の口座にお振り込みいたします。2名ですので月に4万円です。ああ、それから年金課で減額のお手続も可能です。ご希望でしたらそちらもどうぞ」
大変だね、と恵美が呟いた。
そういうものだとよく耳にするが、確かにたらい回しにされている気がしてきた。いや、ひとつひとつは着実に進んでいる。
「もう次で終わりさ、もう少しだ」
「そうだね」
13時に役所に入ったが、既に16時を回る時刻だ。
「会社への連絡、今のうちに済ませてしまおう」
そう恵美に伝え、年金課の前を通り外に出た。恵美も付いてきた。
「秀悟くん、そちらが終わってからで構わないのだけれど、私の会社へは秀悟くんから電話してもらえないかな」
ああ、勿論だと返事をし、携帯電話を取り出し会社へ連絡した。

全てを終え、帰宅した。
「恵美、ごめん。今日も出前でいいかな」
仕方ないなと引き攣った笑顔を見せてくれた。
「でも今日はあのお蕎麦屋さんはダメだよ。あそこ美味しいけど高いからね」
「それなら交番の近くにラーメン屋があるだろ、あそこも出前してくれるらしい」
じゃあそこにしよう、と恵美のお墨付きをもらえた。
「なにがいいかな、以前近くを通ったけど、醤油ラーメンみたいだった」
「それなら醤油ラーメンと、あと炒飯も食べたい」
「そんなに食べきれないだろ、半分こしよう」
言葉の選択から、いくらか恵美の気分を察することができるようになった。しかしそれでも、その平坦な抑揚と声色には似つかわしくない言葉たちだ。
注文が完了し、出前を待っている間、恵美は昨日と同じようにドラマを観始めた。
「秀悟くん」
視聴から5分ほどで恵美が僕を呼んだ。
「表情ってさ、なんで必要なの?」
「ああ、それは、表現なんだ。言葉ではなんとでも言えるだろう。でも表情は言葉よりもっと雄弁なんだ。そして嘘をつきにくい。だから例えば『私はいま嬉しい』とか、そういう気持ちを表現するのにとても適した手段なんだ」
そっか、と恵美はまた黙り込んでドラマを観始めた。
チャイムが鳴り、ラーメンと炒飯が届いた。恵美に声をかけ、食卓に座りラーメンを啜る。
「今、秀悟くんは美味しいって感じてるの?」
なるほど、そうか。恵美は他人の表情に対しても何も分からなくなったのか。
「そうだよ、このラーメンは美味しい。でもチャーシューはイマイチだ。もう少し柔らかい方が僕は好きだ」
「今、そういう表情をしていたの?」
「どうかな、意識してなかったけれど、きっとそうなんだろう。どんな顔してた?」
えーっと、と考え、数秒の沈黙の間に恵美はスープを一口飲んだ。
「口角が上がって、目がキラキラしてた。そう、キラキラ。表現の言葉は覚えてるの。光ってるわけじゃないのに、なんでそう感じてたんだろう。でも、キラキラしてたよ」
これはいい兆候なのだろうか。
「それで、もっとそういう気持ちを言葉にしてほしいの。ちょっと大変かもしれないけど、秀悟くんの表情わからないから、教えて欲しい」
いい兆候なのだろうか、判断はできない。しかし無碍にもできない。
「分かった、なるべく伝えるようにする。今は正直に言うと困惑している。恵美の気持ちは分かるけど、これがリハビリとして正しいのかが僕は分からないから、だから困惑しているんだ」
「でもドラマだと表情だけで表現しようとしているシーンも多くて、私ちゃんと理解できないんだよ。そういうのを秀悟くんが教えてくれたら嬉しい」
ううむ、と唸った。確かにそうだ。ドラマや演劇は積極的に観るようにとは言われていた。その延長で、僕が副教材になるだけの話か。
「よし、分かった。そうしよう。今僕は納得した、そんな表情だ」
「ありがとう」
そう言って恵美は残りのラーメンを食べた。
「ここの炒飯はあんまり美味しくないね」

翌日、恵美は無事に在宅にシフトすることになった。会社が在宅用の機材を用意するため、今日は休みになった。僕は出社する。
「恵美、これを言うのはちょっと恥ずかしいけど、僕は恵美を一人で家に残して会社に行くこと対して不安になっている、そういう表情だ」
玄関先で恵美にそう伝えると、抱きしめてくれた。
「大丈夫だよ、何かあったら会社に連絡するね」
サーバ管理という業務上、携帯電話の持ち込みは厳禁だし、さらに社内イントラネットのみの通信環境なのでメールすら届かない。
「分かった、なるべく早く帰るよ」
そう言いながら恵美を抱きしめ返した。今日はサーバ構築が1件、メンテが2件ある。僕のチームはメンテに回るだろう。異常が無ければ定時に退勤できる。
「それじゃ、行ってくるよ。ちなみに今は、これからも毎朝ハグしてほしいって表情だよ」
「秀悟くん次第だね、行ってらっしゃい」

「係長、ベンダー側のソフトウェアでバグが発生しています」
夜間管理の担当者からの第一声が上がった。またか、という思いを抱え、詳細を確認した。
「想定外のDDos攻撃があり、それ自体は問題なかったのですが、それが起因のバグではないかという見解です。現在遠隔で補修中です」
「了解、ありがとう」
朝礼を待ち、セキュリティカードを受け取りサーバ室へ入る。機器の状態は正常だが、確かにサーバへの書き込みでエラーが多発していたログが残っていた。
「これか」
課長と係長が全員でログを確認した。室長への報告は済んでいるらしい。
「復旧まで予備を稼働させています。初動が早かったため、アクセス障害は深夜の数秒とのことです」
ああ、よかった。これならそれほど時間はかからなさそうだ。
「大丈夫そうですね、それでは私のチームはメンテに取り掛かります」
課長の了解をもらい、サーバの温度ログを確認し、交換対象の基盤やディスク、ケーブルをチェックする。交換対象を洗い出し、予備サーバへ接続し、交換し、必要なソフトをインストールし、稼働の確認をする。
「田丸くん、ちょっと」
構築担当の係長から呼ばれた。
「田丸くん、この管理システムのSQL、どう思う?ほら、この部分」
「あー、これもうちょっとシンプルな方が安心ですね」
「そうだよな、よし、SQL修正だ。田丸くん、もし手が空きそうだったら手伝ってくれない?」
ああ、今僕はどういう表情なんだろうか。嫌だけど悟られないよう真剣な顔をしているんだけど、恵美はこれ理解できるのかな。
「分かりました」
そういえば事務に顔出してないな。この後ちょっと時間もらおう。

「ええ、伺っております」
それでは、と書類を渡された。申請書が1枚、承諾書が1枚、国への申請書がまた1枚。
「こちらに記入していただきます。日付は昨日時点で構いません。受理され次第、開始となります」
通勤・退勤の際に概念を落とした場合の労災のようなものの事前申請だ。これさえ申請しておけば、通勤中に方向が分からなくなってもなんとかなる。しかしその際に一時的に給与が減る。その分を後から国の補助で補填するそうだ。その承諾書と申請書らしい。
「分かりました、それでは明日お渡しします」
はい、と素っ気ない返事があった。さて、なんとか定時に退勤できるよう尽力しなければ。構築のヘルプもあと1時間程度で開放されるだろう。メンテも特に問題なく進んでいる。この調子ならなんとかなりそうだ。

「おかえりなさい」
玄関を開けるや否や、恵美が姿を現した。腕を広げている。
「ちゃんと早く帰ってこれたので、ハグします」
僕次第ってこういうことかと笑いながら、その抱擁を甘受した。
「ただいま、どうだった?なにもなかった?」
ハグをしながら恵美に尋ねた。
「郵便屋さんを不快にさせてしまったかもしれない」
「ああ、それは僕が会った時に事情を説明しておくよ」
その程度でよかった。他になにか予想していた訳ではないが、予期せぬなにかが起きた訳でもなくよかった。
「それじゃ」
抱きしめていた腕を緩めた。
「今日の夕食は何がいい?」
「パスタがいいな、魚介の」
靴を脱ぎながら、かしこまりましたと返事をした。確かイカがあったはずだ。アサリかハマグリがあればいいけれど、どうだったか。
「ねぇ、貝ってなにか残ってた?」
寝室で着替えながら尋ねると、すぐ後ろから声がした。
「冷蔵庫は結構すかすかだよ」
「じゃあ着替えたら買い物に行こうか。外に出れそう?」
「大丈夫」
恵美は寂しかった時は拗ねる。拗ねながら僕の後ろを付いてまわる。今日は恐らく空元気だろう。配達員を怖がらせた手前、思うところがあり、拗ねるのは我慢しているけれど僕の後ろに付いて歩いているんだろう。多分、そんなところだ。
「それじゃ行きましょう。ちなみに今の僕は、恵美とデートができるので喜んでいます」
そう言うと恵美は無言で、無表情で僕の腕を叩いた。

半年が経過した。
恵美は表情を作ることが段々とできるようになってきた。
笑顔はスムーズにできるようになったが、悲しい表情は分からない。僕があまりお手本になれていない。ドラマで勉強しているようだが、それでもやはり副教材が必要なのだろうか。そう考えながら帰路を急いだ。
「すいません、落としましたよ」
「ああ、これは失礼しました、ありがとうございます」
足元には硫黄のような結晶が落ちていた。アボカドほどの大きさ、ゴツゴツとした質感のそれを手に取り、僕は両手で握り込んだ。
それでは、と指摘をした通行人の青年に背を向けた。歩き始めた数秒の後、その塊は両手の中からすっかり消えていた。
帰宅した僕は、恵美へ顛末を伝えながらスーツを脱いだ。
「親切な人がいて良かったね、そのままだと大変だったよ」
恵美はPCモニターに向かい在宅業務を進めながら答えた。
「手続きと再構築しなくて済んだね」
「ああ、助かったよ」
Tシャツに着替え台所に歩きながら、僕は続けた。
「ところで、今日は何を食べたい?」
「コキーユ・サン・ジャック・ポワレ」
「今はなんの仕事してるの?」
「フランス料理屋のメニューデザインだよ」
「なるほどね、そのメニューは日本語でなんていうの?」
「カリっとなるまで炒めたホタテ」
冷凍庫を開き、冷凍ホタテがあることを確認した。
「ホタテなんていつ買ったの?」
「今朝だよ」
モニターの前から微動だにしない周到な妻に微笑みを向け、ホタテの解凍を始めた。恵美が、ソースもちゃんと作ってとリクエストしたので、解凍を待つ間に玉ねぎを切り、白ワインと煮込み始めた。煮立つまでにバターを溶かし、投入し、バターソースの用意ができた。
「いい匂いだね」
相変わらずの無機質な声と、自然な笑顔のアンバランスを纏い、恵美は横に立っていた。
「今日も期待できますな」
「本当はエシャロットが良かったんだけど、さすがに常備してなかったよ」
「どこでそんなレシピを学んだの?」
「オレンジページ」
「料理の雑誌?」
「そう」
すごいなぁとソース鍋を見つめながら恵美は温度のない嘆息を漏らす。
「だいぶ表情は自然になったね。そろそろ声の表情を練習しようか」
「それ難しいよ。顔の表情は動かせばなんとかなるけど、声の表情はすごく難しい。声色とか勢いとか声量とか息との混ぜ具合とか、考えることが多すぎるよ」
改めて説明され、確かに声の表情に含まれる要素は凄まじいなと感じた。よくもそれほどの行為を無意識に行なっていたものだ。
「確かにそう聞くと難しそうだ」
「みんな凄いよ、テレビの人はそれすら演技するんでしょう」
「できるペースで少しずつだね」
解凍が終わったホタテを手に取った。少し多めに油を敷いたフライパンは、もう十分に熱い。
「油、跳ねるよ」
そそくさとリビングへ戻る恵美を横目に、ホタテをフライパンに入れた。盛大な音と共に油が跳ねる。表面が固くなるまで炒めた。
「フランベするよ」
そう恵美に伝えると、再度台所まで来た。ソースは白ワインなので、ホタテにも白ワインの香りを付けるんだよと説明し、フライパンに白ワインを入れコンロの火を近づけた。
「すごいね」
感情を落とす前から恵美はフランベを見るのが好きだった。その際にはいつも目を輝かせていたが、今はその影もない。
「よし、お皿を取ってほしい」
そう告げると食器棚から大皿を取り出してくれた。中央にホタテを盛り付け、線を引くようにソースをかけた。野菜室にあったレタスと、少し残しておいた玉ねぎをホタテの周囲に並べた。
「スープはレトルトなのでお好きなものを選んで」
そう言いながら僕は戸棚からレトルトのコンソメスープを取り出した。
「私も秀悟くんと同じやつ」
ご飯をよそっていくれている恵美がそう答えた。
「了解」
マグカップにスープの素を入れ、ポットからお湯を入れる。スプーンを取り出し、混ぜながら恵美の分を食卓に置いた。既に配膳を終え椅子に座っている恵美は、美味しそうだねと言った。

リハビリの定期報告のため、病院を訪れた。既に医師の手は離れ、心理療法士と相談しながらリハビリを続けている。
「そういえば」
新しいリハビリメニューを策定するため、恵美の近況を報告していた。心理療法士が思い出したように告げた。
「概念結晶って稀に他人が吸収してしまうこともあるそうです。いつだったか、先々月ごろに論文が発表されていて、とは言え特殊なケースなので再現が難しく、まだ支持されていないものなんですが」
世間話にしては専門すぎませんかと口を挟みかけたが、心理療法士はそのまま続けた。
「その概念結晶を司る根底の部分、日本語では価値観って言えばいいんですかね。そこが共通の人、例えば同じように育てられた双子とかですね、そういう人間同士なら概念結晶は他人のものでも吸収されてしまうって説です」
一呼吸の間が空き、会話のバトンがこちらに届いたことを確認した。
「それって再現は難しいんですか?概念を落とすような年齢の双子なら、珍しいにしても皆無って訳でもなさそうですが」
それです、と指を立てながら応答があった。
「そういう年齢の双子は既に自立していて、同じ環境にいないので価値観は異なる存在になってしまうということです。つまりまったく奇跡でも起きていない限り、この説の再現は不可ということですね。もちろんその年齢まで同じように生きている双子がいればいいんですが、それこそ皆無に近いでしょう」
なるほど、そんな可能性もあるのか。そう答えると心理療法士は続けた。
「この説には続きがあって、他人の概念結晶を吸収するってことは、二重の概念を持つということなんですが、とはいえ全く同じ価値観を共有する概念なので、そこに矛盾は生じないんです。問題なのは吸収した側の別の概念が圧迫され押し出されてしまう。つまり概念を落としやすくなるということです」
それまでなんの問題もなく飲み込めていた心理療法士の話を、急に飲み込めなくなってしまった。どういうことであろうか。あくまで可能性だが、僕の中に恵美の概念が存在している?そういうことだろうか。
「恵美さんの概念結晶が見つからなかったということなので、もしかしたら旦那さんが吸収してたりして、なんて思ったんですが、さすがにそんな奇跡は起きませんよね」
その男はあははと笑いながらリハビリメニューの策定を再開した。

「恵美はどう思う?」
帰宅した僕はあらましを説明し、意見を求めた。
「秀悟くんはどう思うの?」
恵美は先ほど渡したリハビリメニューを眺めている。
「僕は、僕と恵美はそこまで同じような考えではないと思っている。恵美は表情豊かだけど、僕はそこまで感情を出してなかったと思うし、再現不可なほど似ているなんてことは無いと思う」
そう、と視線を落としたまま答えた。
「私は秀悟くんとそっくりだと思ってるよ」
そんなことないだろう、と答えた。恵美は地図を読めない。料理も苦手だし、夜更かしもできない。その代わり人の顔をすぐ覚えるし、裁縫ができるし、早起きだ。家事の分担だけでもこれだけ違う。
「その論文では価値観って言ってたんでしょう?」
そうだ。日本語訳に困ってそう言っていた。
「価値観と概念って、もっと違うものじゃないかな。秀悟くんが言ってるのはさらに違う部分かな。技能の得手不得手は価値観や概念を持った先にあるものだもん」
なるほど、と僕は恵美の話に耳を傾ける。
「だからね、価値観が同じっていうことは、例えば動物を見てかわいいとか、ご飯を食べて美味しいとか、お財布を拾ったら交番に届けるとか、そういう感情の部分だと思うんだ。私は秀悟くんが私とそっくりな価値観を持ってるなって思ったから一緒にいるんだよ」
僕は下を向いた。恵美の言葉をしっかりと飲み込むため、視覚情報を遮断した。
「でもそんなの当たり前じゃないのか?動物はかわいいし、美味しい食事は美味しいじゃないか」
「世の中にはそう思わない人もいるんだよ、動物が嫌いだったり、ご飯は栄養さえ摂れればいいって人もいるの」
「そんな人がいるのか、可哀想だ」
「私もそう思う」
ふと前を向くと、恵美はとても嬉しそうな笑顔を向けていた。
「だから、価値観がそっくりなんだよ」
そうだったんだ、と声を絞った。以前と同じ笑顔に再開したこと、お互いの価値観をそこまで気にしていたことに、溢れそうになる涙をこらえるため必死だった。
「僕は、恵美のその笑顔が好きだから結婚したんだ」
「じゃあもう何も問題ないね」
そう言う最愛の妻に、僕はそうだねと答えた。正確には、答えたつもりだ。嗚咽が止まらず、発話できた自信がない。

いつもの声が聞こえる。
「秀悟くん、起きて」
体を捻り、ベッドサイドの目覚まし時計の針を確認する。
「ああ、おはよう」
マットに手をつき、上体を起こした。
「おはよう。今朝はちょっと頑張って朝ごはんを作ったよ」
「え、何を作ったの」
戦慄が走る。料理の悉くを失敗し、焼くこと以外の調理を習得していない恵美が頑張った朝食とは。
「へへ、サンドイッチ」
これが拍子抜けか、と思う。こんなに緊張していたのかと思うほどに脱力した。
「大変だったよ、ちゃんと食パンの耳を切って、具材がはみ出ないように大きさを整えたんだよ」
それは早く食べたいなと答え、恵美は満足気に台所へ歩いて行った。僕は洗面台へ行き、顔を洗った。
「概念の件、どうしようか」
恵美はサンドイッチを眺めながら答えた。
「今のところ、その論文では解決策は無いんでしょう?これは研究を待つしかないんじゃないかな」
「そうだね、その通りだ」
それより、と会話を転換させ、サンドイッチの感想は?と尋ねられた。
「とても美味しいよ、また作って欲しいな」
そう返事をすると、弁当箱に詰められたサンドイッチを渡された。
「はい、お弁当でリクエストにお答えしました」
さすが周到な妻だ、と笑った。

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