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泣いたあの日と夢のはしくれ:日々のあれこれ

過去の私がキダチさんらの動画に救われたように思ったので、備忘録がてらnoteを書きました。
若干二次創作をしていた当時の感覚を忘れてしまったこともあり、内容が本題とずれているかもしれませんがご容赦ください。


納得と自己肯定感

一次・二次創作問わず小説を書いたり、イラストを描いたり、何某かを作ったり。
2023年より前の自分も例に漏れず、作品を出力している時にぶち当たる「他者」の存在に振り回されていました。

自分と他人と、見えている他人

とある出来事(主に他者の状態)に関して、自分では納得していないなりに憤慨したり、失望したり、筆を折ってはまたとって、ということが多い創作人生でした。(まだやめるつもりはさらさらありません)
しかし、なんというか振り回されながら「こんな奴らに負けない!!!(意訳)」を燃料にファイアしている自分の内側がこの数年でだいぶ変化したように思います。星クラ的に言うと私の5室が姦しいせいです。

もちろん、自分も年輪が増えてきているので、その分、少しずつ大人になれてきた、という部分もあるのでしょうが、まだまだ子どもの心は捨てきれず。そうこうしているうちに、わめき散らかす自分が大人げなかったのだろうなと、心のどこかで考えるようになりました。

でもでもだって

というところで、ビシバシと打ちひしがれた言葉がたくさんありました。
上記の動画に関しては、以下の一言が、それはもう的確に自分の心をえぐりました。

なんでこの人こんな「点」のことでいちいちへこむんだろうなぁ!

ベラさんの熱いお言葉

点がすべてだと思っていたのだと、まさしく頬を殴られたように思いました。エアーで。ゆえに、当時の自分のことを思い返しながら、聞きいってしまいました。と同時にふつふつとあらぬ熱が膨らみ。

だってだれもわたしのことをみてくれないじゃない。

そのとき、自分はそう思っていました。

反面、そういうのが透けていたからなおのこと忌避されていたのだと客観的には思えます。というか、今なら、です。当時は同じことを言われても「なんでなんで」で暴れていたと思います。
「ほかのひとが○○なのに、どうして私は○○できないんだろう(できない自分は屑だわ塵だわ、的なあれこれ)」ということを考えていました。ときどき思いますが、仕事の上ではそう思わない。できることをして結果回ればそれでいい。

なのに、こと趣味の分野では許せなかった。たぶん許したらなにかが崩れるとでも思っていたんでしょう。しょうもないプライドとか自尊心ってやつでしょう。それで本を読まれるとは限らないのに、です。

他人と自分の出来ることの違い

できて当たり前、ができなくて当たり前と思い知ったのは、本当に、ここ最近のことです。逆もしかり。おそらく、できるけれどしない、やらない、という選択肢もあると思います。人には人の乳酸菌生き方があるんだから、と。

でも、マイルールに囚われていた自分はそう解釈できなかった。
「私がやってるんだから同じだけやれ」って勝手に叫んでました。眉間に皺を寄せて、あれもこれもぜんぶ自分がやらなきゃって勝手にピリピリして。
そりゃあ、ただ作りたいだけの人たちは離れていくんだろうなと。客観的に見たら今の私も離れたと思います。

そういう中でも長く付き合ってくれている方には、本当に感謝しかありません。

耳が痛いお話、続

そしてその後のオススメ欄からピックアップされてきたこちらの動画。

最初の数分ですら、嫉妬しまくっていると自覚している自分にグサグサ刺さりました。一方、自分がわかりやすく嫉妬されたことがないからそちら側の視点はわからない、という幼稚さもあったのだろう、と解釈しています。

どれだけ作品を作っても頒布しても、自分にはなんの価値もない。
でも作り続けないと(特に二次創作では)界隈という社会のなかで死ぬ。

当時は本気でそう思っていました。結果、2023年頃に筆を折ったというか持ち替えて、その社会的にしんだようなものなので、間違ってはいなかったと思います。

その間に「なんで理解してもらえないんだろう」を星読みしたり、カードを引いたり、はたまた別の講義的なものに行ったりで答えを探しに行きましたが、未だしっかりとしたものは得られませんでした。ただ、こうした紆余曲折のおかげで、感情を表出するまでのワンクッションを作ることが出来ました。

対象とする悩みをスライドさせることによって、自分が何に憤っていて、どうしたかったのかが明確になるのだろうなと思ったので、ここは学んでよかったなと思う部分です。これまでの自分は脳直すぎたなあと。

大人になる前にこうしたワンクッションの置き方を学べていたらよかったのですが、私はここ最近になってようやっと、という感じです。

あの日 あの時 あの場所で

例えばあるジャンルのAさんに会わなかったらよかったんだろうなあと思う事は今でもあります。あとは、曲がり角で出会ってしまった推し、とか、掘り下げていくうちに元ネタが好きになったとか。気付いたらそれが脳内公式になっていたカップリングとか。

けれど、それで広がった世界はあくまで私の選んできた世界であることもまた事実で。その中でしか作れない作品を得られたのも、私の経験だったと思いたいなと思っているところです。

明日の私は、誰を愛してるのか

ジャンルをいろいろ渡り歩きながら、作品の作り方もマイナーチェンジしつつ、亀の歩みで文章も少しずつ、自分の思うきれいなかたち、に収束しつつあるのでは、と思っています。

自分はどうしてもメインに据えた彼ら彼女らの作中の関係性を追体験したくなるタイプなので、厳密に言えばカップリングという形ではないのかもしれませんが、最終的に便宜上、そうだと言われるような作品を作りがちです。

だから、作中の彼らにその時は何も感じなかったのに、自分が作品を作る中で生まれてしまう感情や想像に、ときどき、自分でもびっくりします。対象者を好きになって、溺れて、自分という枠組みの中に浮上する感覚は未だに心地良いと思ってしまう。誰かにわかってほしいと言いながら、叫びながら、私はきっと、私のことしか本質的には愛せないのかなと、最近思いました。

いろんな作品を読んでも、なんというか、その人が好きだから買う、作品が面白ければなおよし、のタイプになりがちで。(だからこそ、自分の作品へのフィードバックがないとしにたくなるという悪癖があったわけなのですが)
作品のことは嫌いになっても自分のことは~、の典型例でした。こうやって何度もnoteやその他の媒体に書き連ねて、いろいろと自己分析をして、初めてわかったような気がしています。

過去の自分を抱きしめる

結局、歩いてきた自分のやり方がどこかしらうまくいかないように設計されていただけなのかもなあと。むしろそういう設計にしてたの自分じゃないの? と最近思えるようになりました。
ある種「その瞬間の自分」というものを切り離して考えていたから、というのもあるかもしれません。自分のしらないものごとは描いたり書いたりできない。

だったら、自分の内側の正しさだけでジャッジできる問題もない、のかなと。

今苦手になってしまったコンテンツについては、もしかしたら自分がすとーんと落ち込んだときにしか見れないかもしれないなという切なさはあります。あとは、件の袂を分かったひとと、見ているものが異なったと安心できたときに。

これを自分の内側だけで完結できるのであれば一番手っ取り早いのですが、そうではないとき、「先生、あのね」よろしくオープンな場所で客観的に「こういう場面/対応もあったんじゃないのかな」と会話や問いかけの形で言語化していただける場があることは、本当にありがたいなと思っています。

コンテンツを作っているキダチさんらをはじめ、ここに集うクリエーターのみなさまが少しでも長く心地よく、作品そのものや創作活動を楽しめる時間が長いことを祈っております。

余談ですが、自分が夢的な妄想ができない分、こういうタロットの使い方で楽しむことに憧れがあります。いつか自分の創作キャラに対してやってみたいなと思います。

キダチさんのアフタートークnote(有料)はこちら

これからもみなさんの健やかな創作活動を応援しています!

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