【ツバメの子育て24時】落ちても飛ぶ、転勤妻の奮闘記
最近ではほとんど聞かなくなった「転勤族」。
本当に絶滅したのだろうか。それでも私は今も、その生き残りの妻として暮らしている。
「転勤ガチャ」や「行き先ランダム」。響きは軽い。けれど、住む街を選ぶ自由を奪われるだけで、胸は鉛色に沈む。
しかし、悪いことばかりではない。あの年、私たちは「青い海が待っている」という何とも曖昧な期待だけを頼りに、とある海辺の街に引っ越した。
海なし県で生まれ育った私にとって、しょっぱい潮風は「映え」どころか、鼻を刺激する未知の匂いでしかなかった。洗った洗濯物がカラッと乾かなくて、愕然とする日々が私を掴みかけた矢先。
本当の意味で私を掴んだのは、海ではなく空から舞い降りた小さな新しい入居者だった。
マンションの軒下にへばりついた謎の泥団子。私は、思わず二度見した。
「ツ、ツバメの巣?」
テレビで見たことはあったが、生ツバメの巣は人生初。きっと幕末に黒船が浦賀沖に来航した際、民衆はこんな衝撃を受けたのではないか。
恐る恐る巣に近寄った瞬間、上空から「チュピィ!」と鋭い警報音。見上げると二羽のツバメがマンションの外壁を無茶な角度で旋回しながら、私を睨みつけている。
「ごめんごめん、私は敵じゃないから」と手を振りつつ、全軍撤退。どうやら初対面で不審者認定されたらしい。
翌日からが忙しかった。巣の真下に落ちてくる──そう、あの愛らしいフンだ。この掃除が、私の日課に追加されたのだ。平日の昼間は住民の大半が不在。気づけば、「(自称)ツバメ専属コンシェルジュ」として孤軍奮闘する羽目になった。
近所のスーパーで段ボールをもらい、防水シートを被せ、巣の真下に設置。さらに「フン害注意!」と手書きのポップまで掲示してみた。
なぜかこうでもしないと、自分の居場所がない気がしたのだ。潮風にも街にも馴染んでいない私は、「(自称)ツバメ専属コンシェルジュ」の肩書きで自己肯定感を飼育していたのかもしれない。
例の二羽のツバメは、こちらの努力なども意に介さず。毎日無謀な飛行を繰り返し、時折私への威嚇を忘れることはなかった。
ある朝、泥団子の縁から黒く丸いものがニョキッと突き出ていた。指先ほどの小さな頭。
「ヒナだ!しかも五羽!」
みんな一斉に口をパカ~と開き、運ばれてくる餌を、「今か今か」と待ち構えている。
二羽のツバメは、見事な空中ブレーキで巣にピタッ、餌をイン、そして離陸。まるで高速ドライブスルーだ。
私が小さく拍手すると、「うるさい!」と言わんばかりに私の頭上で旋回してみせた。親としての責任を立派に果たす貫禄を、これでもかと見せつけられた気がした。
ところが自然界は私が考えていたほど、甘くはなかった。ヒナを発見してから数日後、察しの良い人なら想像もつくであろう事件が起きたのである。掃除に行ってみると、巣の下に一羽のヒナが落下していた。すでに息はなく、力尽きていた。
見上げると、残りの兄弟は着々と体格差をつけ、押し合いへし合い。弱い個体は弾き出される。それが自然の摂理。頭では分かっていても、感情は追いつかない。
「なんで私がツバメの社会学を体感してるのよ!」と泣き言を飲み込み、そっとティッシュに包み、マンションの空き地へと埋めた。
その晩、言葉にできない感情と、自然の無慈悲を胸に抱えつつも、こぼれる涙をどうしても抑え切れなかった。
だがコンシェルジュたるもの、泣いてばかりもいられない。時は止まってはくれないのだから。
今日も私は、巣に残るヒナの愛らしい「落とし物」をせっせと処理した。加えて、親ツバメでは防ぎきれない野良猫や他の鳥の魔の手からヒナを守るべく、監視と護衛を引き受けている。
コンシェルジュは、かつてヨーロッパで監視や護衛の役目も担っていたという。私も、もはや単なる清掃係ではない。託された責務の重さに、思わず襟を正した。
幸運にも、残り四羽のヒナは順調に育ち、巣の縁で羽ばたき練習を始めていた。
「いよいよかなぁ」
卒業式当日──と言ってもスケジュールはツバメ任せ──私は巣の下でスマホを構えて待機。
午前九時過ぎ、長男(と勝手に命名)が第一声を上げ、ぎこちなく羽ばたき、空へ放物線を描くように舞い上がった。
続いて二番手、三番手。ラスト一羽だけが巣の縁でモジモジ。
「早くしないと遅れを取るよ」と心の中で叱咤激励した次の瞬間、意を決したようにバッと宙へ。
親ツバメは少し離れた電線でじっと見守り、やがて羽を大きく広げた。そのバサッという音が、まるで「合格!」の祝砲のように響いた。そこへ私の拍手も重なり、二つの祝砲が一つのアンサンブルを奏でた。
拍手の熱で染まった掌の赤と、涙でにじむ瞳の赤。二つの赤を身にまといながら、わが子を送り出す親のように胸を締めつけられながらも、私は静かに空を見上げていた。
翌朝、巣はもちろん空っぽ。フン受け段ボールも無事、お役御免だ。ゴミ袋片手に片づけをしながら、私はなぜか清々しい気分だった。心の中で、「任務完了!」と敬礼し、その場をあとにした。
ほどなくして、私たちはまた引っ越すことになった。行き先は私の故郷。潮の香りとは無縁、ただ蒸し暑さだけがまとわりつく盆地だ。
荷造り最終日。ふと空を見上げると、一羽のツバメがふわりと弧を描いてこちらへ飛んで来たような気がした。あれは、先日巣立った「卒業生」なのか。それとも、すでに遠くへ旅立った子の面影か。もう、確かめる術はない。
潮風もツバメのフンもない内陸の夏、私は時々、空を見上げる癖がついた。落ちては飛ぶツバメの姿に、人生もそうだと気づく。落下を知るからこそ、次の飛翔は眩しいのだ。
こうして、「(自称)ツバメ専属コンシェルジュ」として過ごしたあの海辺の街でのドタバタは、私の転勤アルバムの中でも、飛び抜けて塩っけとユーモアが効いている。
ページを開くたびに、ヒナの羽音と潮風の匂いが一緒に舞い戻る「看板エピソード」だ。
さあ次は、どの街の空で羽ばたこう。
