みのりの眼通信 vol.8 |日本人がクラシック音楽を演奏するということについて、ひとつの覚書
コンサートの企画を考えるとき、時折ふと立ち止まってしまうことがあります。
それは、「そもそも、私たち日本人が西欧のクラシック音楽を演奏するとは、どういうことなのか?」という、根源的な問いです。
私は演奏家ではありません。だからこそ、演奏の現場とは少し距離を置いた場所から、この問いを眺めているのかもしれません。
ただ、それでも、この音楽を聴き手として愛し、企画者として届けようとする以上、無関係ではいられないと感じています。
日本人は往々にして、器用です。
西欧で学び、その音楽に求められる技術や感覚を高い水準で体得する演奏家が、今日では数多く存在します。
しかし、だからこそ思うのです。
もしそれが単なる「模倣」にとどまるのであれば、そこに日本人が演奏する意義はあるのだろうか?と。
音楽には、それが生まれた文化の空気、土地の匂い、言葉のリズムといった、技術では測れない感覚が染み込んでいます。
ドイツの重厚な構造感、フランスの色彩感覚、スペインのリズムや情熱――
それらは譜面に書かれていないけれど、演奏には確かに現れます。
たとえば、スペインの名ピアニスト、アリシア・デ・ラローチャ。
彼女の演奏は、モーツァルトやベートーヴェンも見事ですが、アルベニスやグラナドスといった母国スペインの作品になると、まるで音楽そのものが血を通わせて立ち上がるような説得力があります。
その演奏からは、技術の高さだけでは届かない「文化と感応する力」が感じられました。
だからといって、他国の音楽を他国の人が演奏してはならない、ということではありません。
むしろ他者の文化と向き合い、自らの身体と感覚で再創造することこそ、音楽の根源的な営みだと思います。
では、日本人が西欧音楽を演奏するとは、どのような営みでありうるのか。
そこに求められるのは、ただの模倣を超えた、深い理解と感応、そして何より自らが日本人であることを引き受けた表現ではないでしょうか。
現代は、グローバル化によって演奏の「均質化」が進んでいます。
世界中どこでも、同じような録音、同じような演奏が聴ける時代です。
けれども、だからこそ、それに抗うような強い「個」が、より切実に求められているように思います。
かつて、大学時代の先生がこんなことをおっしゃっていました。
「個人的なことを突き詰めると、それは普遍に繋がる」と。
この言葉が、今でも私のなかに強く残っています。
ここでいう「普遍」とは、すべてを均一化するようなグローバリズム的な一様性ではなく、多様性を保ったまま他者と響き合えるだけの強度ある表現のことです。
みのりの眼では、西欧クラシック音楽を多く取り上げています。
そのこと自体に何の疑問もないようでいて、実は常に、上記のような問いをどこかに抱えています。
私たち日本人がこの音楽に向き合うとき、それはどんなまなざしでありうるのか。
そしてそれをどう届けることができるのか。
正解のない問いです。
けれども、問いを持ち続けること――それ自体が、音楽を企画し、届けようとする行為のひとつの出発点なのだと信じています。
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