【小説】「君と見上げた、夏空のその先へ」第7章「すれ違い」
第7章「すれ違い」
十一月。
街路樹の葉は赤や黄色に色づき、吐く息が少しずつ白くなり始めていた。
それでも、野球部の朝練は変わらない。
まだ暗いグラウンドに立ち、一番最初に白球を握るのは、いつも悠真だった。
「高橋。」
監督が静かに声をかける。
「はい。」
「来年は、お前がチームを引っ張る。」
「……はい。」
その責任は、想像以上に重かった。
新チームが始まってからというもの、練習時間はさらに増えた。
平日は朝練と放課後練習。
休日は練習試合。
自主練も欠かさない。
気づけば、美咲と話す時間はほとんどなくなっていた。
「最近、高橋くん忙しそうだね。」
昼休みに偶然会った美咲が、少し寂しそうに笑う。
「ごめん。」
「謝らなくていいよ。」
そう言う彼女の笑顔は、以前より少しだけ無理をしているように見えた。
数日後。
病院。
母・陽子の容体は落ち着いていたが、治療は長引いていた。
「学校は楽しい?」
母が優しく尋ねる。
「うん。」
美咲は笑顔で答える。
「友達もいるし、大丈夫。」
嘘だった。
学校では笑っていても、心のどこかにぽっかり穴が空いている。
悠真と話せない日が続くたび、その穴は少しずつ大きくなっていた。
その頃。
グラウンドでは、紅白戦が行われていた。
「ナイス!」
蓮が悠真のヒットに拍手を送る。
今では二人は、互いを高め合う最高のライバルだった。
「一本勝負、負けないからな。」
「望むところだ。」
笑い合う二人。
しかし健太だけは気づいていた。
「悠真。」
「ん?」
「朝倉さん、最近元気ないぞ。」
バットを握る手が止まる。
「……そうかな。」
「お前、全然話せてないだろ。」
図星だった。
その日の放課後。
悠真は久しぶりに図書室へ向かった。
静かな本棚の間。
窓際の席に、美咲が座っていた。
文庫本を開いている。
「朝倉さん。」
声をかけると、美咲は少し驚いて顔を上げた。
「あ、高橋くん。」
「久しぶり。」
「うん。」
会って話したかった。
そう言いたいのに、言葉が出てこない。
「練習、大変そうだね。」
「まあ。」
「頑張って。」
「ありがとう。」
会話は、それだけで終わってしまった。
以前なら、何時間でも話せたはずなのに。
沈黙だけが二人の間に流れる。
図書室を出たあと。
美咲は窓から校庭を見つめていた。
悠真は仲間たちと笑いながらグラウンドへ走っていく。
「応援しなきゃ。」
そう思う。
でも同時に、小さな寂しさが胸を締めつける。
「私、邪魔なのかな……。」
その言葉は、誰にも届かなかった。
翌日。
雨。
部活動は中止になった。
悠真は「今日はゆっくり話せるかもしれない」と思い、美咲へメッセージを送る。
『放課後、少し話せる?』
しかし返事は来なかった。
実はその頃、美咲は病院で母に付き添っていた。
スマートフォンを見る余裕もなかった。
返事が来ない画面を見つめる悠真。
「忙しいのかな……。」
少しだけ、不安になる。
夜。
美咲は病室のソファで眠ってしまっていた。
目を覚ましたのは午後十時。
慌ててスマートフォンを開く。
悠真からのメッセージ。
「しまった……。」
すぐ返信しようとした、その瞬間。
バッテリーが切れ、画面が真っ暗になった。
「うそ……。」
充電器も持ってきていない。
美咲は小さくため息をついた。
「明日ちゃんと謝ろう。」
そう思いながらも、不安は消えなかった。
小さなすれ違い。
けれど、それは静かに二人の心へ影を落とし始めていた。
そして翌朝。
校内に、一枚の写真が貼られているのを見つけた生徒たちがざわめき始める。
そこには、誰かの悪意が込められていた――。

翌朝。
まだ一時間目が始まる前だというのに、廊下は妙なざわめきに包まれていた。
「見た?」
「本当なのかな……。」
「え、でもあれ……。」
登校した悠真は、不思議そうに人だかりへ近づく。
掲示板には一枚の写真が貼られていた。
それは数日前、病院の前で撮られたものだった。
美咲と蓮が並んで歩いている姿。
その下には、黒いマジックで乱暴に書かれた文字。
『お似合いの二人』
誰が貼ったのかは分からない。
だが、その一枚だけで十分だった。
校内には、あっという間に噂が広がっていく。
「朝倉さんと神崎くんって、付き合ってるの?」
「小さい頃から知り合いらしいよ。」
「じゃあ本当なんだ。」
根拠のない噂ほど、人は信じてしまう。
その声は、美咲の耳にも届いていた。
教室へ入ると、友達が心配そうに声をかける。
「大丈夫?」
美咲はいつものように笑った。
「うん。ただの誤解だから。」
そう答えながらも、胸は締めつけられていた。
昼休み。
悠真は美咲に話しかけようとした。
しかし、その前に蓮が彼女の席へ向かう。
「写真のこと、ごめん。」
「蓮くんが謝ることじゃないよ。」
「でも……。」
二人が話している姿を見た悠真は、足を止めた。
今なら話しかけられる。
そう思ったのに、一歩が踏み出せない。
そのまま踵を返し、教室を出てしまった。
放課後。
「逃げるのか?」
部室で健太が静かに言う。
悠真はグローブを見つめたまま答えない。
「信じたいなら、本人に聞け。」
「……。」
「噂を信じるな。」
健太の言葉は真っすぐだった。
「お前らしくないぞ。」
その頃、美咲は図書室で一人、本を開いていた。
けれど、一文字も頭に入らない。
窓の外を見ると、グラウンドでは悠真がノックを受けている。
「会いたいな……。」
小さく漏れた本音は、誰にも届かなかった。
翌日の放課後。
突然、激しい雨が降り始めた。
傘を持っていなかった美咲は昇降口で立ち尽くしていた。
そこへ悠真がやって来る。
手には一本の傘。
目が合う。
数秒間の沈黙。
「……一緒に帰る?」
その一言に、美咲の目が少し潤んだ。
「うん。」
二人は一本の傘に入り、ゆっくり歩き始める。
雨音だけが二人を包む。
しばらく歩いたところで、悠真が立ち止まった。
「写真のこと。」
美咲も足を止める。
「ごめんね。」
「謝らなくていい。」
悠真は首を横に振る。
「聞きたかった。」
「え?」
「噂じゃなくて、朝倉さんの言葉を。」
美咲は少しだけ笑った。
涙を浮かべながら。
「蓮くんとは、小さい頃の友達。」
「それだけ?」
「うん。」
「病院にも付き添ってくれた。でも……。」
彼女はまっすぐ悠真を見つめる。
「私が今、一番会いたいって思う人は、高橋くん。」
雨音が、一瞬だけ遠くなった気がした。
悠真は胸の奥の重たいものが、少しずつほどけていくのを感じた。
「ごめん。」
「私も。」
二人は顔を見合わせ、ようやく笑った。
その様子を、校舎の窓から蓮が静かに見つめていた。
「それでいい。」
そうつぶやくと、彼は静かに背を向ける。
その横顔には寂しさもあった。
だが、それ以上に、大切な友人たちを応援したいという優しさがあった。
雨はやがて止み、西の空に大きな虹が架かった。
「きれい……。」
美咲が空を見上げる。
「ほんとだ。」
悠真も並んで見上げた。
二人の肩が少しだけ触れる。
どちらも離れようとはしなかった。
しかし、その幸せな時間の終わりを告げるように、悠真のスマートフォンが震える。
画面には健太からの着信。
「悠真、大変だ!」
受話器の向こうから聞こえた声は震えていた。
「監督が倒れた!」
悠真の表情から笑顔が消える。
秋の空を覆う雲はなくなったはずなのに、新たな試練は、また静かに二人の前へ現れようとしていた。

