【小説】「君と見上げた、夏空のその先へ」第4章「ライバルの登場」
第4章「ライバルの登場」
七月下旬。
照りつける朝日が、球場のスタンドを白く照らしていた。
県大会一回戦。
夏の始まりを告げるサイレンが鳴り響く。
「整列!」
両校の選手がベンチ前に並ぶ。
「礼!」
一斉に頭を下げる。
その瞬間、悠真は胸の鼓動が一気に速くなるのを感じた。
これが、自分たちの夏。
負けたら終わる、一度きりの夏だ。
スタンドには吹奏楽部の演奏が響いていた。
野球部員の家族、在校生、卒業生。
そして最前列には、美咲の姿があった。
首には、神社で渡した野球ボールのキーホルダー。
それをそっと握りしめながら、大きな声で叫ぶ。
「頑張れー! 高橋くん!」
その声が風に乗ってグラウンドへ届く。
悠真は帽子のつばに触れ、小さくうなずいた。
初回。
相手エースは県内でも評判の速球派。
一打席目。
高めのストレート。
空振り。
続くフォーク。
バットは空を切る。
三球目。
内角いっぱいの直球。
見逃し三振。
「くっ……。」
ベンチへ戻る悠真の肩を、健太が軽く叩いた。
「まだ一打席目だ。」
「次がある。」
蓮も短く言う。
「焦るな。」
その言葉で、少しだけ肩の力が抜けた。
三回裏。
守備の場面。
一死一・二塁。
相手の鋭い打球が三遊間を襲う。
「抜けた!」
誰もがそう思った。
しかし悠真は飛び込んだ。
土煙が舞う。
グローブの先に白球が収まる。
そのまま二塁へ送球。
さらに一塁へ。
「アウト!」
ダブルプレー。
スタンドが大歓声に包まれる。
ベンチへ戻ると、監督が珍しく笑った。
「今のは大きい。」
その一言が、何よりうれしかった。
試合は七回。
一対一。
緊張感が張り詰める。
悠真に打席が回る。
スタンドを見る。
美咲が両手を握りしめ、祈るように見つめていた。
父の夢。
仲間との約束。
美咲の笑顔。
すべてを胸に、バットを握る。
初球。
変化球。
見送る。
二球目。
外角低め。
ファウル。
追い込まれた。
三球目。
ストレート。
「今だ!」
振り抜いた打球は、一・二塁間を鋭く破る。
「抜けた!」
歓声が湧く。
一塁ベース上で拳を握る悠真。
美咲は立ち上がって拍手を送っていた。
その後、犠牲フライで一点を勝ち越し、試合終了。
2対1。
県立青葉高校、初戦突破。
校歌が球場に流れる。
勝利の瞬間、悠真たちは抱き合って喜んだ。
涙ぐむ三年生。
笑顔で帽子を投げる一年生。
健太は悠真の肩を抱いて叫ぶ。
「まだ終わらない! 絶対に甲子園に行くぞ!」
試合後。
球場の外。
美咲がスポーツドリンクを差し出した。
「ナイスゲーム。」
「ありがとう。」
二人は自然と笑い合う。
そこへ蓮が歩いてきた。
「初戦から疲れたな。」
「そうだな。」
少し沈黙が流れる。
そして蓮は、美咲へ向き直った。
「少し話せる?」
美咲の表情が変わる。
「……うん。」
二人は球場の裏手へ歩いていった。
その後ろ姿を見送る悠真。
胸の奥が、ざわつく。
理由は分かっている。
信じたい気持ちと、不安な気持ち。
その二つが、夏空の雲のように入り混じっていた。
遠くで鳴り始めた雷の音。
それは天気だけではなく、三人の関係にも、小さな嵐が近づいていることを告げているようだった。
そして蓮が、美咲に静かに切り出す。
「ずっと伝えたかったことがある。」
その言葉が、三人の運命を大きく動かす第一歩になるとは、まだ誰も知らなかった。

球場の裏手には、夕立のあとの湿った風が吹いていた。
グラウンドの歓声が遠くに聞こえる。
美咲と蓮は、自動販売機の前で向かい合っていた。
蓮は缶のお茶を一本買ったが、開けようとはしなかった。
「久しぶりだね。」
美咲が静かに笑う。
「……ああ。」
短い返事。
昔から蓮は口数が多いほうではなかった。
沈黙のあと、蓮がゆっくり口を開く。
「おばさんのこと、聞いた。」
美咲の表情が少し曇る。
「もう知ってたんだ。」
「母さんから聞いた。」
蓮は空を見上げた。
夕焼けの雲が赤く染まっている。
「何も力になれなくて、ごめん。」
その一言に、美咲は首を横に振る。
「謝らないで。」
「でも……。」
「また会えただけで十分だよ。」
二人は幼い頃の思い出を少しずつ語り始めた。
虫取りをした夏。
雪だるまを作った冬。
公園で日が暮れるまで遊んだ日々。
どれも大切な記憶だった。
しかし、それは「過去」の話だった。
一方、球場の出口では悠真が健太と歩いていた。
「気になるか?」
健太が何気なく聞く。
悠真は苦笑する。
「気にならないって言ったら嘘になる。」
「好きだからな。」
「……。」
否定できなかった。
健太は笑いながら肩を組む。
「だったら野球と一緒だ。」
「え?」
「相手が強いからって逃げるか?」
悠真は首を横に振る。
「逃げない。」
「それでいい。」
その言葉が胸に深く残った。
翌日。
野球部は二回戦へ向けた練習を始めた。
ノック。
バッティング。
ランニング。
誰一人、手を抜かない。
蓮も野球部員として汗を流していた。
「ナイスボール!」
悠真が声を掛けると、蓮も小さく笑った。
「ナイスバッティング。」
いつしか二人は互いを認め合う存在になり始めていた。
ライバルだからこそ、本気でぶつかれる。
そんな空気が生まれていた。
その日の放課後。
美咲は病院へ向かう途中、河川敷に立ち寄った。
夕日が川面を黄金色に染めている。
そこへ偶然、悠真が走ってくる。
自主練帰りだった。
「朝倉さん。」
「あ、高橋くん。」
二人は堤防に腰を下ろした。
しばらく風の音だけが流れる。
やがて美咲が口を開いた。
「昨日ね。」
「うん。」
「蓮くんと昔の話をした。」
悠真は黙って聞く。
「すごく懐かしかった。」
少し間を置いて、美咲は続けた。
「でもね。」
彼女は悠真をまっすぐ見つめた。
「今、一緒にいて楽しいって思えるのは……高橋くんなんだ。」
悠真は息をのんだ。
心臓が大きく鳴る。
「だから、これからも友達でいてくれる?」
その言葉に、少しだけ切なさが混じっていた。
まだ恋とは言えない距離。
それでも、悠真にとっては十分すぎるほど嬉しい言葉だった。
「もちろん。」
二人は笑い合う。
夕焼けの風が二人の間を優しく通り抜けていった。
翌日、病院では。
美咲の母・陽子が担当医と話をしていた。
「検査の結果ですが……。」
医師の表情は穏やかではない。
病室の外で、その話を偶然聞いてしまう人物がいた。
美咲だった。
扉の向こうから聞こえた言葉。
「治療は続けられますが、予断を許さない状態です。」
頭の中が真っ白になる。
手に持っていた野球ボールのキーホルダーが床に落ちた。
カラン、と乾いた音が廊下に響く。
その音は、小さかった。
けれど、美咲の心にはあまりにも大きく響いた。
一方、悠真は次の試合へ向けてバットを振り続ける。
まだ知らない。
大切な人が、一人で涙をこらえていることを。
夏の青空はどこまでも高く広がっていた。
しかし、その眩しい空の向こうでは、新たな試練が静かに近づいていた。

