クライアントやユーザーは本当に建築の素人なのか?
過去数十年、「クライアント」と「ユーザー」は建築家がもっとも過小評価してきた設計ファクターの一つであった。
なぜなら「クライアント」と「ユーザー」は建築の素人だからだ。
出資者として要望が反映されたとしても、建築の本質的価値に素人が関与することはないというのが、おおよその理屈だろう。
だから、藤村龍至氏の「超線形設計プロセス」が世に出てきたとき、ほとんどの建築家が評価の仕方に戸惑ってしまった。
なぜなら、そのプロセスには「クライアント」という、
建築論における設計ファクターとしては久しく目にしない(・・・業務上は最も重要なファクターであることは疑いようがない・・・)項目が存在し、この手法を相対的に評価するための基準も、先行事例も、存在しなかったからである。
そのため、氏の超線形設計プロセスは
一方で既存の設計プロセス論、設計手法と比較され、
他方で個人ではなくマスを相手にする市民ワークショップやエリアマネジメントの文脈として受け入れられた。
それら2つの解釈が間違いだったなどとは思わないし、大いに議論が白熱していた実感もあったが、
「(マスではない、専門家でもない)特定個人の視点を設計に反映させる方法をデザインした」という点を、
正当に評価・検証されたとは到底思えない。
設計業務において「クライアントの意思が反映される」のは至極当たり前のことではあるが、
その当たり前の営みへの建築家の認識は、あくまで属人的なコミュニケーション能力として、であった。
飲み会になれば、「〇〇さんのとこはこんな感じでクライアントと話すらしいよ」などという話題は出るものの、
その文脈は仕事を円滑に進めるティップス程度の話であり、
人を口説くための技術や秘術であり、彼や彼女の建築の本質に迫るようなものではなかった、あるいは現在もないのかもしれない。
ここで藤村氏の超線形設計プロセスを取り上げる理由は、
このプロセスがクライアントを「特定の一個人」として評価している点にある。
建築家が自身の設計を語る際、クライアントの存在はその文面から後退する。
なぜなら、我々民主主義社会に生きる建築家にとっての原理的な最大権力は神でも貴族でもお金持ちでも王でもなく「市民一般」であるという倫理観があり、
クライアントという「特定個人」が実質的な出資者であるという実態と倫理観の間にねじれが存在するからである。
クライアントのパーソナリティを本質的に反映しつつ、「こういう建築が、今の世の中には大切なんじゃないか?」と訴えるに足りるまとまりを保持するというのは意外と困難で、
少なくとも15年前ぐらいまでは困難以前に、「なぜそれをやる必要があるのか?」という空気感だったと記憶している。
事実、
「クライアントやユーザーは何もわかっていない」と真顔で話す建築家は、正直少なくない。
専門家が素人に対して思う本音と考えれば、言わんとする気持ちも分からなくはないが、
建築の素人ではあっても、所有し利用し続けているという意味では、
彼ら彼女らは建築家以上に「彼ら彼女ら生活」の専門家であるはずだ。
超線形設計プロセスでは、クライアントの意思は箇条書きの設計要件に集約されており、その手法がどの程度まで「彼ら彼女ら生活」の質や個性に迫れているかというと、
そこには議論の余地があるだろう。
しかし、超線形設計プロセスが民主主義的倫理観に則り、特定個人(クライアント)の視点を建築化する手付きを持っていることは、
疑いようのないことだと思う。
マスの集合知やデータに還元されずに、「彼ら彼女ら生活」の質そのものから建築をバージョンアップさせる発見があると確信をした上で、
私たちMACAPは「建築的ユーザー分析」を行っている。
藤村氏にとっての「クライアント」は、私たちの文脈では「ユーザー」にすり替わるが、
クライアントとユーザーは同じ理由で建築論から疎外されてきたと思う。
まだ右も左も分からない学部生の時、オープンデスクで事務所にお邪魔させていただき、薫陶を受け、氏の建築論に多大な影響を受けた。
そんな自分と藤村氏と理論としての接続点を見出せるポイントは、ココなのかなと思ったりした。
📝関連:「建築的ユーザー分析とは何か?」
📝参考:「ユーザーの自由と建築の自由」
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MACAP代表 西倉美祝
ウェブサイト : https://www.macap.net/
