私はいまだに、東野圭吾を正しく読めない
深夜1時。
私はパソコンの前で、
作家の分類について
考えていました。
原因は、AIです。
いや。
正確には、東野圭吾さんです。
東野圭吾さんが亡くなった
という知らせを見ました。
私が東野圭吾さんの本と
出合ったのは、図書館でした。
最初に考えたのは、
作品の内容ではありません。
「とうの」なのか。
「ひがしの」なのか。
今なら、もちろん知っています。
ひがしのけいご。
それなのに、今でも、
ときどき一瞬、
わからなくなります。
しかし、考えてみれば、
私が読めていなかったのは、
名前だけではありません。
東野圭吾さんの作品には、
コメディのように
軽やかなものがあります。
ミステリーというものを
離れたところから眺めて、
人間の滑稽さを描く
作品もあります。
読み終わったあと、
何とも言えないやるせなさが
残る作品もあります。
事件は解決しています。
それなのに、人間だけが、
解決されないまま残ります。
東野圭吾さんは、どこに
分類される作家なのだろう。
本を読むたび、そう思わされる
ことがありました。
私はAIに聞きました。
「東野圭吾さんの作品って、
どうしてこんなに振り幅が
広いの?」
AIは答えました。
「コメディから社会派ミステリー
まで、多彩な作風を持ち、
緻密なトリックだけでなく、
人間の心理も描ける作家
だからだと思います」
なんだか釈然としない。
東野圭吾さんの作品に
感じていた振り幅は、
ジャンルの広さだけでは
ない気がします。
東野圭吾さんは、
作品によって、人間との
距離を変えていたのでは
ないでしょうか。
離れた場所から、
人間の行動を眺める。
すると、人間はおかしい。
真剣に生きているのに、
どこか滑稽です。
今度は、すぐ近くまで
寄っていく。
すると、先ほどまで
笑っていた人間が、
簡単には笑えないものを
抱えています。
ミステリー作家の中には、
わざと人間味をできるだけ
取り除き、トリックを
中心に書く人もいます。
それが悪いわけではありません。
人間を駒のように動かすからこそ、
仕掛けの精密さが際立つ作品も
あります。
しかし、人間を書くには、
別の力が必要です。
なぜ、その人はそこまで
してしまったのか。
ほかの道はなかったのか。
罪を犯した人間を、
罪を犯した人間という
一言でまとめて終わって
よいのか。
人間には、トリックのような
正解がありません。
私が特に好きなのは、
ガリレオシリーズです。
科学によって、不可解な
現象が解き明かされていく。
起きたことには、
必ず仕組みがある。
湯川先生は、
現象を理屈で解きます。
けれど、理屈ですべてが
片づくわけではありません。
むしろ、現象が科学によって
説明されればされるほど、
科学では説明しきれない
人間だけが後に残されます。
人間味。
やるせなさ。
ノスタルジー。
どの言葉だけでも足りません。
私はAIに聞きました。
「ガリレオシリーズを
読んだあとに残る、
うまく言葉にできない
ものは何だと思う?」
AIは答えました。
「喪失感や郷愁、
報われない愛情が
重なった余韻では
ないでしょうか」
AIは、すぐに分類します。
喪失感。
郷愁。
愛情。
けれど、私が感じている
ものは、ちょっと違う
気がします。
悲しいだけではない。
懐かしいだけでもない。
誰かの行動を正しいとも、
間違っているとも言い切れない。
言葉にするのが難しい。
ガリレオシリーズでは、
不可解な現象には、
きちんと答えが出ます。
けれど、その人を正しい人、
悪い人のどちらにすればいいか。
そこには、最後まで答えが
出ません。
でも、その瞬間。
私はまた一つ、
精神的無敵の人になりました。
物事とは、無理に一つに
分類しなくてもよいはずです。
人間も、作家も、
一つの言葉にきれいに
収まらないからこそ、
色々な方向から見ることが
できるのです。
無敵だ。
最強だ。
東野圭吾って、なんて読むの。
そう聞かれたら、私は
一瞬迷うかもしれません。
今でも咄嗟に、
「とうの」だったか、
「ひがしの」だったか、
わからなくなることが
あるのです。
では、東野圭吾は、
どんな作家なの。
そう聞かれても、私はたぶん、
同じように迷います。
笑っていたはずが、
気づけばやるせない。
謎は解けたのに、
人間は解けない。
どれもが東野圭吾さんです。
たぶん私は、これからも
東野圭吾さんの本を読むたびに
また迷うのでしょう。
東野圭吾って、なんて読むの。
東野圭吾って、どんな作家なの。
答えを知っているはずなのに、
どちらも、咄嗟には答えられない。
これからも読み続けて、
これからも迷い続けるのだと思います。
