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#4 読まれたい私は、読者を手段にしていないか|読まれる記事を哲学する

読まれる記事を書きたい。

そう思うこと自体は、悪いことではないと思う。

せっかく書くなら、誰かに届いてほしい。たくさんの人に読んでもらいたい。少しでも心に残ってほしい。文章を書く人なら、多かれ少なかれ、そうした願いを持っているのだと思う。

だから私たちは、読まれる記事の書き方を探す。タイトルのつけ方、冒頭の入り方、共感される言葉、読者の悩みに寄り添う構成。そうした方法は、たしかにある。

AIが文章を整えてくれるようになった今、言葉は以前よりもずっと、きれいに形にできるようになった。読みやすく、分かりやすく、伝わりやすい文章を書くことも、前より難しくなくなっている。

けれど、そこで一度立ち止まりたくなる。

読まれる記事を書こうとするとき、書き手は読者をどのような存在として見ているのだろう。

きれいな文章に、少し立ち止まる

たとえば、こんな文章がある。

私は哲学を世界に広めたいと思っています。
少しでも多くの人に考えるきっかけを届けたいです。
共感していただけたら、ぜひフォローお願いします。

悪い文章ではない。

むしろ、きれいだと思う。
目的もある。
やさしい。
前向きだ。

でも、どこかで少し立ち止まってしまう。

この文章は、本当に読者のために書かれているのだろうか。
それとも、読者にフォローしてもらうために、理念を使っているのだろうか。。

文章がきれいに整っているからこそ、
その奥にあるものが、少し気になってしまった。

ゴールデンサークル理論とWHY

読まれる文章には、WHYが大事だと言われることがある。

何をするのか。
どうやるのか。
その前に、なぜやるのか。

これは、サイモン・シネックの「ゴールデンサークル理論」として知られている考え方です。
TEDの公式動画でも紹介されているので、まだ見たことがない人は、よかったら見てみてください。

ゴールデンサークル理論では、
人はWHATではなく、WHYに心を動かされると考える。

何を売っているのか。
何を書いているのか。
何を発信しているのか。

それよりも先に、
なぜそれをしているのか。

その人の奥にある理由が見えたとき、
人はただ情報を受け取るだけではなく、
その人の言葉に少し近づいてみたくなる。

たしかにそうだと思う。

「哲学の記事を書いています」よりも、
「日常の中で、少し立ち止まる時間をつくりたい」と言われた方が、
その人がどこから書いているのかが見えてくる。

文章は、WHATだけでは説明になる。

HOWが入ると、工夫になる。

WHYが見えると、
そこに少しだけ、その人の姿が見えてくる。

だから、読まれる記事にWHYが大事だという考え方は、
とてもよく分かる。

でも、ここで私は少し立ち止まった。

WHYは、本来なら自分の根っこにあるものだと思う。

なぜ書くのか。
なぜ届けたいのか。
なぜその言葉に立ち止まったのか。

それは、自分の中に戻る問いのはずだった。

けれど、読まれるためにWHYを使い始めると、
WHYはいつの間にか、読者を動かすための道具になってしまうことがある。

WHYを手段にしてしまう

「哲学を広めたい」

それは本当の気持ちかもしれない。

でも、そのすぐあとに、

「だからフォローしてください」

と続いた瞬間、あなたはどう感じますか。

きっと、そのWHYは少し違うものに見えてくる。

哲学を広めたい、という目的が、
フォローしてもらうための理由になってしまう。

読者と一緒に考えたいのではなく、
読者に反応してほしい。

読者に届いてほしいのではなく、
読者に動いてほしい。

もちろん、フォローしてほしいと思うこと自体は悪いことではない。

読まれたい。
届いてほしい。
応援してほしい。

そう思うことは、自然なことだと思う。

でも、WHYを語ることで読者を動かそうとしたとき、
私はその人の心を、少しだけ手段にしてしまっていないだろうか。

ここで、ゴールデンサークル理論は少し違う問いに変わる。

WHYを語れば、人は動く。

ではなく、

WHYで人を動かそうとしたとき、
私は読者をどんな存在として見ているのか。

この問いが、私には大切に思えた。

カントで考える、読者を手段にしない文章

ここで思い出したいのが、カントの考え方です。

カントは、人間を単なる手段として扱ってはいけないと考えた。
人間は、つねに同時に目的として扱われなければならない。

少し難しい言い方だけれど、
これを文章に置き換えるなら、こうなる。

読者を、クリックする人としてだけ見ていないか。
スキを押す人としてだけ見ていないか。
フォローしてくれる人としてだけ見ていないか。
自分の記事を伸ばすための存在にしていないか。

読者は、ただ反応してくれる存在ではないはず。

ひとりの時間があり、
ひとりの悩みがあり、
ひとりの世界を生きている人である。

だから、読まれる記事を書くということは、
読者を動かす技術を磨くことだけではないのかもしれない。

読者をひとりの人間として迎えること。
読者が自分の心に立ち止まれる余白を残すこと。
読者の不安や共感に、こちらの都合だけで触れないこと。

そこに、文章を書く人の倫理があるのだと思う。

ゴールデンサークル理論は、WHYの力を教えてくれる。

でもカントは、
そのWHYを使うときに、
読者を手段にしていないかを問い返してくる。

読まれる記事を書くためにWHYを使う。

それは、一見すると正しい文章術のように見える。

でも、そのWHYが読者を動かすための道具になった瞬間、
文章は少しだけ、誠実さから離れてしまうのかもしれない。

ここで一度、カントの考え方を簡単に整理してみたい。

読者を手段として見るのか。
それとも、読者を目的として見るのか。

この違いは、ほんの少しのようで、
文章の奥に大きく出てしまう気がする。

読まれる記事とは何か考える

読まれる記事とは、読者をこちらへ引っ張る文章ではない。

読者が、自分の場所で少し立ち止まれる文章なのかもしれない。

「これを読んでください」
「共感してください」
「フォローしてください」

そうやって読者を動かすのではなく、
読者が自分で何かを感じる余白を残す。

そのとき文章は、
ただ読まれるためのものではなくなる。

読者の心を使うのではなく、
読者の心に場所をあけるものになる。

読まれる記事を書くことは、
読者を思い通りに動かすことではなく、
読者が自分の心に戻れる場所を、そっと差し出すことなのかもしれない。

AIで文章を整えられる時代だからこそ、
きれいな言葉の奥にあるものを、もう一度見つめたい。

その文章は、誰かを動かすためにあるのか。
それとも、誰かと一緒に考えるためにあるのか。

最後に問われているのは、AIではなく、
その言葉を選ぶ人間なのだと思う。

おわりに|WHYは戻る場所

読まれる記事を書きたい。

その願いは、文章を書く人にとって自然なものだと思う。けれど、読者の心を使ってまで読まれたいわけではない。

WHYは、読者を動かすための道具ではない。読まれなかったときにも、自分がそこへ戻ってこられる場所なのだと思う。

なぜ書くのか。

その問いは、誰かに見せるためだけのものではない。私が、私の言葉に戻るための問いでもある。

読まれる記事を書く前に、私はもう一度立ち止まりたい。この文章は、読者を手段にしていないだろうか。読者を、ひとりの人間として迎えられているだろうか。そして私は、本当にそのWHYから書いているのだろうか。

読まれたい。届いてほしい。誰かの心に残ってほしい。

そう願うことは、きっと間違っていない。けれど、そのために読者の心を使ってしまうのなら、それは私が書きたかった文章とは少し違う気がする。

だからこそ、文章には芯が必要なのだと思う。

読者を動かすためではなく、読者が自分の心に少し立ち止まれるように。書き手自身もまた、自分の言葉へ戻ってこられるように。

Mionは、「わたしの哲学」をする。

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