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隊長のビールと坊ちゃんのワイン 1.

アルバ帝国の少年貴族ユリアンは生まれつき視力が悪く、武人になれないことに劣等感を抱いていた。ある日留学先で揉め事を起こし、逃げるようにケメト王国に駐留する叔父を訊ねる。
しかし叔父が屋敷を空けた直後、火事により焼け出されてしまう。ユリアンを保護したのは百人隊長のネフェルだった。隊の村は貴族の暮らしからは程遠かったが、彼らの宴会に付き合っているうちに、自然と心が癒されていた。
ケメト王国に賊が襲い掛かった。戦場に立つことはないと思っていたユリアンが初陣に臨むこととなった。アルバ帝国とケメト王国の同盟を守るため、ネフェル達と共に敵を打ち破る。

あらすじ

 

隊長のビールと坊ちゃんのワイン 2.
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隊長のビールと坊ちゃんのワイン 25.

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 海へ落ちそうになった。

 渡り板に二回以上足を付くと、かえってバランスが取りづらいと知っていたのに。なぜか今日はそれを忘れて、平らな地面を歩くように足を出してしまった。
 サンダルで踏んだ板が、船の揺れに釣られて左右に動く。ハッとした時にはもうユリアンの体は右側に倒れ始めていた。

「ユリアン様!」
 従者のヘラスが素早くユリアンを支えた。
「すまない」
 ユリアンが不注意を謝罪すると、ヘラスが身を屈めて顔を覗き込んでくる。大男の体躯に似合わず、情けないほど心配そうな顔をしていた。
「大丈夫だ」
 頷いて見せると、ヘラスは黙ってユリアンのトーガの襞を直す。長旅と、今しがた抱えられたことで緋色のトーガは随分と乱れてしまっていた。

「ご無事のご到着に安堵致しました、若君様。ようこそケメト王国の都、デメトリア市へ」
 桟橋には小柄な中年の男が待ち構えていた。今日の案内役だと言って恭しく頭を下げる。
 トーガの色は身分によって厳格に決められていて、緋色は貴族の色だ。中年の男はケメトの役人で、彼もユリアンと同じ鮮やかな緋色のトーガを纏っている。

 ユリアンも返礼に左手でトーガの裾を持ち上げ、右手を胸の前にかざし、軽く膝を折った。
「出迎え感謝する。ユリアン・クラディウス・フィレヌスである。初めての土地で右も左も分からぬ故、世話をかけるが、どうかよろしく頼む」
「さすがクラディウスの御曹司。なんと慎ましく、思慮深くあらせられるか……わたくし、感服致しました」
 案内役は大げさなまでに感心した様子で三度、頭を下げた。

 大貴族クラディウス一門の名を知らぬ者などいない。国の名すら曖昧な辺境の土地ならばいざ知らず、アルバ帝国領に隣接し、実質的な属国であるケメトの役人にとって、ユリアンはへつらう価値のある相手であった。

「遊学の地にデメトリアをお選びいただき、光栄にございます。デメトリア市は、帝都にも神都にも劣らぬ、学問の都の自負がございます」
 腰を低くしつつも、案内役の語気は強い。
 ケメト王国の首都、デメトリア市には世界一とも言われる大図書館や、ギュムナシオンやムセイオンといった学術施設が多数ある。実際に帝都や神都からも学者や学生が集まってくるのだ。

「……うむ。多くの学びが得られるよう努めたいと思っている」
 ユリアンは短く首肯した。

 今回のデメトリア訪問は、名目としては留学だ。まだ職務を持たない若い貴族が各地を渡る時、とりあえず留学だと言っておくものなのだが、案内役は真面目に学問のために来たと思っているらしい。
 彼の素直な思い込みを訂正したかったが、言葉がすぐに出て来なくて、諦めた。
 最近、言葉に詰まることが多い。非力なユリアンの武器といえば、弁論くらいのものであるのに。

「紹介しよう。こちらは護衛で従者のヘラスだ」
 ユリアンの紹介を受けて、ヘラスは武人らしく拳で胸を突き、素早く浅く頭を下げた。そしてすかさず元の姿勢に戻り胸を張る。体の大きなヘラスは無言で立っているだけで威圧感があり、案内役は愛想笑いを浮かべただけですぐにヘラスから目を逸らした。

「お荷物は? ああ、あれですね」
 ユリアンが乗ってきた小船のすぐあとに、もう一隻が桟橋につけていた。人夫が木箱や皮袋を担ぎ上げて下ろしていく。
「おい、お前たち、丁重に扱うのだぞ。こちらはアルバ貴族筆頭、クラディウス一門の若君様だ。その大切なお荷物、心してお運びするように」

 別にたいした物は入っていないと言おうとして、開きかけた口を閉じた。

 クラディウス一門は帝都アルバの旧家だが、貴族の筆頭と言い切ってしまうのは他家との関係上憚られるとか、自分が長の後継になると決まった訳ではないので若君様は勘弁してほしいとか、言いたいことはいくつかあったが、それをわざわざ口にするのが面倒だった。
 口にしたところでどうせ「まあまあ」と楽しそうに嗜められて、「ご謙遜を」「さすが」と追加のおべっかを使われるだけだと分かっていた。問答は無意味である。

 ユリアンは今年十九歳になった。
 緋色のトーガとクラディウス・フィレヌスの名を理由に、うんと年上の大人から諂われるたび、心は少しずつ緩慢になっていく。
 大きな音が立たないよう注意しながら、深く溜息を吐いた。

「ささ、若君様。向こうに臥輿(がよ)をご用意しておりますので」
「臥輿は不要だ。道を覚えたいので、歩いて案内してくれ」
「えっ、えぇ……よろしいので?」
 ユリアンの言葉に案内役は猫撫で声を忘れた。その理由はおおよそ推察できる。

 この地はアルバ帝国の地図では、ケメト特別州という名だ。属州には州総督が派遣されるが、特別州のケメトには監督官が送られる。
 その監督官は、先日までパンデモスという人物だった。小悪党で、徴税権を持たぬのに市民から金品を巻き上げ、地位を振りかざして現地の役人たちを足蹴にして楽しんでいたそうだ。当然その部下、取り巻きたちも居丈高で、案内役の男も長くそういう者たちの相手をしてきたのだろう。
 自分の足で歩くことを厭い、輿で運ばれることを大喜びするような連中を、アルバ貴族だと認識している。

「しばらくデメトリアで過ごすのだ。街を見せてくれぬか」
「もちろん仰せのままに。ただ、クラディウス司令官の御屋敷まで、十スタディオンはございますが」
「歩いてはならぬのか?」
「いえ、いえ、若君様がよろしいなら。で、ありますれば、日差しが強うございますので、トーガで頭を覆うのがよろしゅうございます。こうして」
 案内役は困惑してふらふらと頭を揺らしたが、すぐに気を取り直して自分のトーガの端を引き上げて首から額に巻きつけた。

 なるほど、確かにケメトは日差しの強い土地だ。
 少し傾いて西へ向かう太陽が、ユリアンの右の耳をジリジリと焼いていた。案内役に習ってトーガの左肩に留めていた金具を外そうとすると、ヘラスの大きな手が伸びてきて先にそれを取り上げる。ユリアンが首の後ろの襞を引っ張り上げてテラコッタ色の髪を隠し、布の端をまた左肩にかけると、ヘラスがそれを金具で留め直した。
 布一枚で覆うだけでも、焼けるような熱さは防がれる。

 案内役は身支度を確認してから先導を始めた。ユリアンがその後ろを、ヘラスがさらにその後ろを歩く。少し離れて荷を担いだ人夫たちが続いた。
ユリアンは目を細めたまま街を眺める。
 生まれつき視力が弱く、目をすがめないと良く見えないのだ。そのためどうしても目つきが悪くなる。
 桟橋から南へ二区画進み、街を東西に貫く目抜き通りに出ると、案内役は誇らしげにと手を広げた。

「こちらがポイボス大路にございます」
 ケメト王国は太陽の神ポイボスを熱心に信仰する土地で、その名を冠するということは、国で一番と同義である。

 大路には多くの人が行き交い、商店や宿屋が大声で客を呼び込んでいた。
 午後、まだ夕刻というには早い時間。仕事を終えて公共浴場へ向かう者、劇場や闘技場へ向かう者、酒食のために店を探す者と様々な目的で移動する人が多い時間であった。この光景は帝都アルバでも、東の古都モレアでも、ここデメトリアでも変わらない。

 大路を東に向かって進んで行くと、路地から北風が吹いた。煤けた匂いに思わず路地を振り返る。その奥の光景はよく見えなかったが。
「火事があったのか……」
 嗅ぎ慣れた匂いであった。物が燃え、鎮火したあとに煤が風に舞う時の匂い。
「お目汚し申し訳ございません。二日ほど前に宿屋が火を出してしまいまして。幸い、そう燃え広がらずに済んだのですが」
「デメトリアも火事が多いのか?」
「ええ、たびたび。民家の竈や飲食店の設計については、きちんと指導しておるのですよ。しかし」
「都市に火事はつきものであるな」

 建物が密集する大都市は、一度火が着くと燃え広がりやすい。それは帝都でも州都でも同じで、ユリアンの故郷であるアルバ市も城下はたびたび火事に見舞われていた。
 灰の混じった風が吹いてきて、ユリアンはトーガの端を引き寄せて口を塞ぐ。道行く人々も皆トーガで頭を覆うか、肩から上に被れる布を使っていた。
 ケメト特別州はアルバ帝国の中でも南の端に位置する。南部の砂漠から流れてくる乾燥した風と、太陽神ポイボスの咆哮と呼ばれる強い日差しが相まって、ひどく暑い土地だ。

「若君様、ご覧ください。ほら、あちらに湖面が見えますでしょう。イテルー大河の北端でございます」
 案内役が通りの向こうを指差した。

 しかしユリアンには、路地が続いているだろうことしか分からない。四キュビット先の人の顔は目鼻が見分けられないほど不鮮明になり、まっすぐな道でも一スタディオン先は歪んで霞んで塗りつぶされてしまうのだ。

「悪いが、僕は目が弱いのだ。まったく見えないわけではないが、道の向こうの景色までは分からない。湖はあとでもっと近くまで行って見ることにしよう」
 案内役はおそらく、目を丸くしたのだろう。そういった表情の変化もユリアンにはなかなか見分けがつかない。
「本当に、臥輿でなくて宜しいので?」
「見えないからこそ覚えなくてはならない。大通りを歩くくらいならば問題はない」
「はあ……」

 案内役の背中を追いながらデメトリアの街を観察する。
 注意しなければぶつかるほどの人混み、飲食店の呼び込みの声。子供の手を引く母親に、大きな荷物を背負った行商らしき男。様々な人々の間をすり抜けていく。
 ユリアン自身はほとんど見えていなかったが、すれ違う人々は皆彼を振り返った。
 特徴的なテラコッタ色の髪こそ隠されているが、ケメトの民とは明らかに違う乳白色の肌と、髪と同じテラコッタ色の大きく丸い瞳。役人と巨漢の護衛を引きつれた少年貴族は人目を惹いた。

 港町はどこも活気がある。ユリアンは故郷である帝都アルバ市から、世界の始まりの地と呼ばれる古い土地、東のモレア市で学び、ここデメトリア市へと渡ってきた。港はいくつも見た。
 港町が好きだった。
 公用のアルバ語をはじめとした複数の言語が飛び交い、時に怒鳴り声、歓声、商売を有利にしようとする甘言、政治的な熱弁まで、ありとあらゆる人間の言葉で溢れている。港には各地から集まった人間、商品、知識、芸術が集い、また各地へと旅立っていく。忙しなくて、騒がしくて、感動的なまでに暑苦しくて、それが幼かったユリアンを魅了した。

 今日もユリアンの心は熱気あふれる船着き場に高揚を見せたが、その一欠片以外の部分はひんやりと冷めたままだ。最近は港にも、書物にも、いまひとつ心を動かされない。

 体が疲れて手足を動かすのが億劫なように、ぐったりと心が動かない日が続いていた。

 顔を上げると、家々の屋根の向こうに大灯台が見えた。世界一と名高い巨大な塔は、ユリアンの目にもしっかりとその存在を主張していた。

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