この世界はゲームなのかもしれない
「足るを知る」という言葉
私は「足るを知る」という言葉が好きです。
京都・龍安寺には、「吾唯足知(われ、ただ足るを知る)」という有名な言葉があります。
「今あるものに満足する。」
たったそれだけの意味なのに、この言葉を思い浮かべるだけで、不思議と心が穏やかになります。
私は、もっと広い家に住みたいとも、高級車に乗りたいとも、あまり思いません。
屋根があって、雨風をしのげる。
夏にはクーラーがついていて、蛇口をひねれば水が出る。
お湯だってすぐに出てくる。
それだけで十分幸せです。
以前住んでいた家では、シャワーのお湯が途中で水になってしまうことがよくありました。
冬は本当に寒くて、お風呂に入るたびに「またか…。」と思っていたのを今でも覚えています。
それでも、水が出るだけありがたい。
そう思っていました。
だから今の家に住み始めた時は、「なんて快適なんだろう。」と感動したものです。
もちろん、不便が全くないわけではありません。
もっと広かったら。
もっと駅に近かったら。
もっと収納があったら。
そう思う瞬間もあります。
でも、その「もっと」は、本当に自分が望んでいるものなのか?
最近、そんなことを考えるようになりました。
「もっと」が溢れる世界
家を一歩出ると、世の中は「もっと」という言葉で溢れています。
もっと広い家を。
もっと便利な家電を。
もっと新しいスマートフォンを。
もっと稼いで。
もっと成功して。
もっと美しく。
もっと若々しく。
広告を見ても、SNSを見ても、
「今のあなたでは足りません」と言われているような気持ちになります。
昨日まで満足していたはずなのに、誰かの暮らしを見るだけで、自分の生活が急に物足りなく感じる。
これは、とても不思議なことです。
本当は何も変わっていません。
家も変わっていない。
収入も変わっていない。
生活も昨日と同じです。
変わったのは、「他人の価値基準を見た」ということだけ。
それだけで、人は幸せだったはずの生活に不満を抱くことがあります。
もし広告が存在しなかったら。
もしSNSで他人の暮らしを見ることがなかったら。
今よりもっと、「今の生活って悪くないな。」と思える人は多いのかもしれません。
もちろん、広告が悪いと言いたいわけではありません。
広告があるから、新しい商品を知ることができます。
便利な道具にも出会えます。
私たちの生活が豊かになった部分もたくさんあります。
でも、広告には一つ、大きな役割があります。
それは、「もっと欲しい」と思わせることです。
経済は「もっと」で動いている
考えてみると、経済という仕組みは、「もっと」があるから回っています。
もっと便利なものが欲しい。
もっと美味しいものが食べたい。
もっと快適に暮らしたい。
その気持ちがあるから、人はお金を使います。
企業は新しい商品を作り
働く人が増え
それにより、経済が動きます。
つまり、「もっと欲しい」という気持ちは、決して悪いものではありません。
むしろ、人類を発展させてきた原動力でもあります。
もし誰もが「今のままで十分」と思ってしまったら、
新しい薬も、便利な家電も、生まれなかったかもしれません。
だから、「もっと」という欲望は、人間にとって必要なものでもあります。
ただ、その欲望に振り回されてしまうと、苦しくなります。
本当は満足していたのに、気付けば「まだ足りない」と思ってしまう。
すると、「幸せ」はどんどん遠ざかってしまいます。
私は、この矛盾がずっと気になっていました。
そして、ある時ふと思ったのです。
「そもそも、経済って何なんだろう。」と。
お金という不思議な存在
例えば、一万円札。
私たちは、あの紙一枚に一万円の価値があると信じています。
でも、よく考えてみると不思議です。
紙そのものに、一万円分の価値があるわけではありません。
火をつければ燃えてしまいます。
水に濡れれば破れてしまいます。
それなのに、コンビニへ持っていけば食べ物と交換できます。
銀行口座のお金は、もっと不思議です。
紙ですらありません。
ただの数字です。
スマートフォンを開けば、「残高 ○○円」という数字が表示されます。
私たちは、その数字を信じて生活しています。
最近では、現金すら持たずにスマートフォンだけで買い物をする人も珍しくありません。
つまり、私たちは「数字」を信じて生活しているのです。
株もそうです。
ポイントもそうです。
電子マネーもそうです。
どれも目には見えません。
それでも、「価値がある」という共通認識があるから成り立っています。
そう考えると、人間社会は不思議です。
目に見えないものを信じることで、社会が成り立っています。
そして、それを誰も疑いません。
この現象は、お金だけで発生しているものなのでしょうか。
実は、もっと身近なところにも、不思議なものがあります。
それが、「土地」です。
土地は誰のもの?
ある日、ふと思いました。
「土地って、誰が作ったんだろう。」と。
山は、人間が作ったものではありません。
海も、川も、大地も、自然そのものです。
それなのに、「ここからここまでは私の土地です。」というルールがあります。
もちろん、そのルールがあるから社会は成り立っています。
家を建てることもできます。
安心して暮らすこともできます。
だから私は、「土地の所有権なんて無くせばいい」と言いたいわけではありません。
でも、不思議なのです。
誰も作っていない自然に、「これは私のものです」という概念が生まれ、
それを世界中の人が受け入れている。
考えてみると、とても面白いことではないでしょうか。
一方で、自分で建てた家は違います。
自分で作った家具もそうです。
自分が時間をかけて作った作品もそうでしょう。
それを勝手に持っていかれたら、嫌だと感じます。
そこには、自分の時間や労力が込められているからです。
では、自然はどうでしょう。
山は誰が作ったのでしょうか。
海は誰のものなのでしょうか。
そして地球は、一体誰のものなのでしょう。
そんなことを考えているうちに、私は一つのことに気付き始めました。
もしかすると、人間は「目に見えないもの」を共有することで、
社会を作っている生き物なのではないか、と。
人間は「概念」を共有する生き物
「目に見えないものを共有する。」
これは、お金や土地だけに限った話ではありません。
例えば、「会社」。
会社とは、一体どこにあるのでしょう。
会社の建物でしょうか。
それとも社員でしょうか。
建物がなくても会社は存在します。
社員が入れ替わっても会社は続きます。
私たちが「〇〇株式会社」という存在を認識できるのは、
多くの人がその概念を共有しているからです。
「国」も同じです。
飛行機から地上を見ても、国境線は見えません。
山や川は見えても、「ここから日本」「ここから別の国」という線はありません。
それでも私たちは国境を信じ、そのルールに従って暮らしています。
肩書きもそうです。
社長。
部長。
課長。
これらも目には見えません。
あるのは役割だけです。
それでも、その肩書きには大きな意味があります。
人は敬語を使い、責任を任せ、ときにはその肩書きだけで相手を判断することもあります。
そう考えてみると、人間社会は「概念」でできているのです。
会社。
国。
お金。
土地。
肩書き。
ブランド。
株価。
法律。
どれも自然界には存在しません。
人間が作り、人間同士で共有し、人間が信じ続けているものです。
これこそが、人間という生き物の特徴なのかもしれません。
犬や猫は、お金を知りません。
「株式会社」という概念も知りません。
でも人間だけは、目に見えない約束事を何万人、何百万人という規模で共有し、一つの社会を築いています。
だから文明が発展しました。
科学も進歩しました。
世界中の人と取引ができるようにもなりました。
この力は、人間の素晴らしい能力なのだと思います。
概念は、現実を動かす
ここまで書くと、
「じゃあ、お金も土地も、全部ただの幻想なの?」
そう思われるかもしれません。
でも、そうではありません。
確かに概念です。
しかし、その概念は現実を動かします。
お金がなければ、食べ物は買えません。
土地がなければ、家は建てられません。
法律を無視すれば、生活はできません。
つまり、概念だからといって軽いものではないのです。
むしろ、人間が信じているからこそ、大きな力を持っています。
だから私は、「概念なんて意味がない」と言いたいわけではありません。
概念として人が作ったルールは必要です。
社会はルールによって成り立っているからです。
私たちは、お金も、土地も、会社も、国も、たくさんの「概念」の中で生きています。
そして、その概念があるからこそ、見知らぬ人同士でも同じルールのもとで生活し、社会を成り立たせることができています。
だから私は、人間が作った概念そのものを否定したいわけではありません。
むしろ、これほど多くの人が目に見えないものを共有し、
一つの社会を作っていることは、とても不思議で、すごいことだと思います。
ただ、大切なのは、その概念を絶対的なものだと思わないことなのかもしれません。
人間が作った価値基準と、自然そのもの。
社会の中で価値があるものと、自分にとって価値があるもの。
それらを時々切り分けながら、「自分はこの概念とどう付き合っていきたいのか」と考える。
そうすることで、社会の中で生きながらも、少しだけ自由でいられるような気がします。
ただ、一つだけ忘れたくないことがあります。
それは、ルールと、自分自身は別物だということです。
社会というゲーム
そんなことを考えているうちに、社会の姿があるものと重なって見えてきました。
「社会って、ゲームみたいだな。」
ゲームにはルールがあります。
経験値を積み、
レベルを上げ、
お金を集め、
装備を整えます。
ルールを守らなければ、ゲームは成立しません。
社会も同じです。
働いて、お金を稼ぐ。
税金を払う。
契約を守る。
法律に従う。
社会というゲームを遊ぶ以上、そのルールは守ります。
でも、ゲームを遊んだことがある人なら分かるはずです。
レベル99だから、その人自身が偉いわけではありません。
ゲームを閉じれば、その数字はゲームの中だけのものです。
社会も少し似ています。
年収。
肩書き。
家の広さ。
フォロワーの数。
資産。
どれも社会というゲームでは大切な数字です。
でも、その数字だけで人の価値が決まるのでしょうか。
私は、そうは思いません。
もちろん、現実には影響します。
収入が高ければ選択肢は増えます。
家が広ければ快適かもしれません。
それは事実です。
でも、それはゲームを有利に進めるための要素であって、その人という存在そのものではありません。
ゲームの点数と自分自身を同じものにしてしまうと、少し苦しくなります。点数が下がれば、自分まで価値がなくなったように感じてしまうからです。
心を支配されないために
最近、私は一つのことを意識しています。
それは、
「これは自然のルールだろうか。それとも人間が作ったルールだろうか。」と考えることです。
歳を重ねること。
重力があること。
病気になること。
これは自然のルールです。
誰にも変えられません。
一方で、
初対面の人とは名刺交換をする。
会社ではスーツを着る。
成功とは年収で決まる。
何歳までに結婚するべき。
こうしたものは、人間社会が作ってきたルールや価値観です。
もちろん、意味があるものもあります。
社会を円滑にするために必要なものもあるでしょう。
でも、それは絶対の真理ではありません。
時代によって変わります。
国によっても変わります。
そう思えるだけで、少しだけ心が自由になります。
社会のルールは守る。
でも、心まで支配される必要はない。
それくらいの距離感が、ちょうどいいのではないかと思うのです。
「足るを知る」ということ
結局、私は最初の言葉に戻ってきました。
「足るを知る。」
以前は、この言葉を「欲を持たないこと」だと思っていました。
でも今は少し違います。
「足るを知る」とは、
自分にとって本当に大切なものを、自分で決めること。
なのではないでしょうか。
もっと広い家に住みたい人がいてもいい。
もっと仕事を頑張りたい人がいてもいい。
それは、その人にとって大切なものだからです。
一方で、
私は屋根があって、雨風をしのげて、水が出て、お湯が出る。
安心して眠れる場所がある。
それだけでも十分幸せだと思っています。
その価値観は、広告が決めるものではありません。
SNSが決めるものでもありません。
世間が決めるものでもありません。
自分だけが決められるものです。
社会というゲームは、これからも続いていきます。
だから私は、ゲームのルールは守ります。
働きます。
税金も払います。
約束も守ります。
でも、ゲームの点数だけで、自分の幸せを決めることはしたくありません。
「もっと」を追い続けることも大切です。
そのおかげで、人類は発展してきました。
でも、ときどき立ち止まって、
「今あるもので十分幸せだな。」と思える時間も、同じくらい大切なのだと思います。
「足るを知る」とは、欲を捨てることではありません。
「人間が作った価値基準と、自分が本当に大切だと思うものを区別すること。」
そして「自分の幸せを自分自身で決めること。」だと思っています。
この世界は、たくさんの概念でできています。
だからこそ、その概念に飲み込まれず、自分の足で立っていたい。
私はこれからも、「足るを知る」という言葉を、大切にして生きていこうと思います。
