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おじさん構文

 ネットで「おじさん構文」「おばさん構文」が話題になったとき、思い浮かんだことがある。

 私が若かったころ、つまりウン十年前。

 親戚の叔母さんや従姉妹のお姉さんなどから、たまにではあるがお手紙やお葉書をいただくことがあった。

 叔母さんや従姉妹とは、盆暮れ正月でも会うか会わないかの関係。
 幼いころは交流があり、年賀状とか暑中見舞いとか入学祝をいただいたりなど、全く知らない仲では、もちろん、ない。

 みらっちちゃんも、お元気でネ

 そこにはこのように、「ね」が「ネ」というカタカナで記されていた。

 え~
 違和感。

 と、当時の私は思っていたのである。

 小学生くらいのころは「ネ」を自分も使っていた。
 でも20代ともなると、私の世代ではそれはもはや「古くて恥ずかしい」言葉に分類されていた。

 私の叔母さんと言えば、今は少なくとも70代か80代ではあるが、私が10代・20代のころは当然、40代から50代。目下の親戚である私に対し親しみをこめて、ネ、を使って砕けた雰囲気を醸し出そうとしたと思われる。

 今「おじさん構文」の一族と呼ばれし私は、あのときのおばさんや従姉妹と、同じ立場になったのだなと感慨を深くした。

 ちなみに「おじさん・おばさん構文」がどんなものか、というと、顔文字・絵文字・「!」「…」の多用、季節の挨拶、ご機嫌伺い、体調への気遣い、聞いてないのに自分の近況報告、ご飯に誘う、句読点・読点の多用、長文、などがあげられる。

 おおむね私が日々普通にやっていることだ。

 おそらく年齢を経た人物はSNSを「手紙」的なものとしてとらえており、今SNSにジャストミートしている世代は「会話」として捉えているということだろう。

 昔の小説などを読むと、そういった「時代特有の言葉」に触れることはいくらもできるし、今読むと強いジェネレーションギャップを感じる文学やエッセイもたくさんある。それを逆手にとって利用した文学もある。

 1946年から連載が始まった長谷川町子の『サザエさん』。 
 「かつおったら また何かはじめたネ」など、随所に文末の「ネ」「サ」「ヨ」が出てくる。「マアゝ」「だッ」「アッ」など、繰り返し記号や小さい「ッ」も特徴的。

 「ネ・サ・ヨ」に関しては、1958年に神奈川県鎌倉市の腰越小学校から始まった方言強制キャンペーンがあるらしい。
 語尾を「ネー」「サー」「ヨー」と伸ばさないようにするというもので、1965年くらいまで全国に広がって盛んにおこなわれたとか。

 方言の矯正。ということはサザエさんの「ネ」も東京の方言だったのだろうか。強調するときの「流行り」だったのだろうか。

 ちょっと話がずれてしまったが、ともかく、私の若いころは手紙も手書き。

 「言葉遣いが少し古いな」と、手紙をもらった本人が思うだけで済んでいたし、ネット上で晒されるなんてことはあり得ない時代だった。今やキムタクでさえ「インスタがおじさん構文」などと言われる時代。

 言葉は変わりゆくものだから、そうやって「当時の若者」が「おじさんおばさん」になって当時の言葉をうっかり使ったり、現代の若者におもねる言葉(記号含む)を使ってしまい、「今の若者」がそれに違和感を抱く、ということは、太古の昔に文字が普及してからこのかた、よくあることであろうし、別にどうということはない。

 年輩の男性が若い女性に「あわよくば」という気持ちを抱いていてそれが透かし見えるから気持ちが悪い、ということも、なるほど理解できる。

 書き言葉にはそういった「違和感」を嫌悪したり面白がる傾向がよく表れるが、それにもまして、最近は話し言葉やイントネーションも劇的に変わっているのを感じている。

 米津玄師さんの『砂の惑星(2017)』には、「未曽有の思い出は電子音」という歌詞があるのだが、それを聞いたとき「そうか、自分の子供の思い出には電子音が確実に入ってるな」とハッとしたことがある。

 私の幼少期に電子音の声の思い出はない。肉声以外の声の思い出と言ったら、せいぜい扇風機に向かって「ワレワレハー」と言っていたのや、テレビのバラエティ番組の中でヘリウムガスで声が変わって爆笑していた思い出くらいだ。

 今は動画の紹介などに特徴的な読み上げソフトが使われるし、NHKニュースでもAIによるニュースがさしはさまれ、それが最近はほとんど違和感がない。電子音だと言われなければ気が付かないレベルになっている。

 小津安二郎の映画の「です」と、今の「です」は全く違う。同じ日本語かと思うくらい発音が違う。話し言葉のスピードやリズムも違う。少し前から世代によって変わっていることは指摘されていたが、もう指摘が間に合わないくらい、発音やイントネーションの変遷スピードは上がっていると思われる。

 語尾で言うなら「ネ」だけではなく、男性の「~だぜ」「~なのさ」や女性の「~だわ」「~のよ」もほぼ消えてしまった。ジェンダーレス化が進んでいるのを実感する。

 古い小説を読むと、特に女性の話し言葉や、若者、不良少年少女の言葉遣いなどに古めかしさを感じ、違和感ばかりで読むのが辛いこともある。

 たぶん今のワコウドにとってはSNSでそれをリアルな人にされている感覚なのかも知れず、それに何とも言えないムズムズした嫌悪感を感じるのかも知れない。

 世代間のギャップは、指摘されるまで気づかず無意識であることが多い。自分ではそれが当たり前だと思って使用している書き言葉、話し言葉は常に古びる運命にある。アップデートし続けバグを修正し続けることにも限界はある。古いOSはいつか、修正プログラムさえ受け付けなくなる。

 若者であるほど言葉の新旧に敏感だ。誰しもがあまりに流行った特徴的な語彙は使わないように気を付けることができても、文章の組み立て方や話し方には時代が出る。

 noteで文章を書いていて全く他人事ではないのだが、私にできることは、むやみな流行り言葉は使わないことと、せめて外見と言葉のズレがないようにすることくらいだ。
 
 文章を読むにあたり最初からオバサンは除外、とされて読まれないのはともかく、リアルで対面して話したりLINEを交換したりした後に「キモ」と思われるのは避けたいところだ。美魔女ほど気を付けなければいけない点だろう。私は美魔女ではないので安心だが、イケオジや美魔女の方は気を付けたほうが良さそうだ。

 イケオジや美魔女って、死語?
 キモって死語?
 死語って、死語?

 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから
 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから
 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから
 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから
 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから

マザーテレサ

 遺すなら記号だらけの構文ではなくこんな素晴らしい言葉を遺したいものだ。

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