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掌編小説『鍋の向こう側』#シロクマ文芸部#鍋の具は

 鍋の具はいろはにほへとちりぬるを。湯気の向こうには、曇った黒縁眼鏡。そこはただ静かに困った顔をして、髪をくしゃくしゃっと掻きむしる不器用なひとの指定席だった。

 すき焼き、しゃぶしゃぶ、寄せ鍋、うどんすき、キムチ鍋、牡丹鍋、そして水炊き。冬と言えば鍋、鍋といえば鶏の水炊きが定番だった。初めて家族以外に鶏の水炊きを出した日、そのひとは曇った眼鏡で髪をくしゃくしゃっと掻きむしって、苦笑いしていた。
 私が眼鏡男子フェチなんだと気づかせてくれたのが相田くん。彼と一緒にいると、その不思議さで安らぐ。すごくいいひとなんだけど、とにかく不器用。例えばお箸が上手く持てない。ぽろぽろこぼしては、すぐ染みをつくる。母性本能をくすぐられて、何かと世話を焼く私。
 料理には自信があったが、特に鶏の水炊きは母の直伝。ことこと、ことこと、鶏をじっくり煮込んで出汁を取る所からだ。白濁した出汁に野菜を入れて、土鍋の蓋をして、また煮込む。野菜に火が通ったら、ポン酢に薬味を入れて食べる。  
 相田くんはいつも美味しそうに、黙々と食べていた。ぽろぽろこぼしては、ハの字になる眉毛。微笑んで立ち上がる私。ありふれた日常がたまらなく愛おしくて、細波に裸足をくすぐられているような気分だった。そんな優しい時間がずっと続くと思っていた。

 私には中学校の頃からの腐れ縁で、私のものを何でも欲しがる女友達がいた。何回もおねだりされたり、紹介した彼氏を盗られたりしていたから、エリとは縁を切りたかったが、何かと近寄って来られるのだ。相田くんなら大丈夫かもしれない、と油断していた。
 いつものように私のマンションで鍋を囲んでいたら、エリが彼氏にフラレて泣きながら転がり込んできた。つい相田くんをエリに紹介してしまった。エリはピタッと泣き止んで、目の奥が微かに光った気がした。何だか嫌な胸騒ぎ。相田くんはエリに質問攻めにあって、相変わらず髪を掻きむしっていた。
 それからあまり相田くんと連絡が取れなくなった。エリもクリスマス前で、新しい彼氏探しに忙しそうだった。心臓の鼓動がざわつく。するする足裏の砂が攫っていかれるようだった。 
 相田くんのマンションに行ってみた。深呼吸してから、チャイムを鳴らそうとしたその時、相田くんと腕を組んだエリが出てきた。相田くんはハの眉毛で、エリは『え〜、やだ〜、どうしよーう』と甲高い声を出した。相田くんの眉間がますます険しくなる。
 私はきっと相田くんは追いかけてきてくれると信じて、走り出した。エリの嬉しそうな声が廊下に響いていた。彼なら大丈夫かもしれない、と思っていた私が馬鹿だった。それにあの不器用な彼が言い訳すらしないのが腹立たしかった。相田くんは追いかけてきてくれなかった。留守電に『……ごめん』だけの伝言。どういう意味のごめん?ますます私は苛々した。
 ひとりぼっちのクリスマス。相田くんのために買った新しい黒のセーター。トレードマークのアイボリーのセーターは染みだらけだったから、こっそり用意していた。じわっと涙が滲んだ。浮気しない男なんていない。馬鹿、と呟いて、プレゼントを部屋の隅に放り投げた。

 二人の姿を二度と見たくなくて、全然、知らない土地に引っ越して、お見合い結婚をした。顔は全く違うけど、眼鏡男子だった。どうせ男なんて、と思いながら、どこかで相田くんを引きずっていたのかもしれない。
 鍋の具はいろはにほへとちりぬるを。晩御飯が鶏の水炊きの日には、湯気の向こうの夫の眼鏡が曇る。夫は眼鏡を外して拭く。その度に思い出す。ああ、相田くんはもういないんだって。夫もどこかで浮気してるのかな。ため息ついて、立ち上がる。洗い物をしながら、食器のお喋りをいつまでも聞いている。後ろでは、子供がじゃれ合いながら騒いでいる。


picture&design:GoogleGemini✕未来の味蕾

photo:見出し画像(みんなのフォトギャラリーより、いしも ともりさん)

#シロクマ文芸部
#鍋の具は

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