プラハ(チェコ)の雑記|海外ひとり旅
学生時代、世界史が大の苦手で受験も避けてきたため、ヨーロッパの歴史についてはほぼ知らないと言って差し支えない。かつ、今回のヨーロッパの旅程はスイスに始まり、チェコ、ポーランド、クロアチア、ギリシャ、そしてポルトガルとなるが、ヨーロッパの中でも特に馴染みのない東欧・バルカン半島が中心だ。
スイス・チューリッヒからプラハは飛行機で1時間ほど、シェンゲン協定のおかげで出入国手続きが無く、国内線の気軽さで移動できる。日本とは違う、国同士の距離の近さを実感したことがきっかけで、今なら世界史が頭に入るかも…と空き時間に歴史の勉強をすることにした。
といってもyoutubeのファスト教養チャンネルを何本か見るくらいだが、チェコがスラブ民族であり、かつてボヘミアと呼ばれていた、ということを初めて意識した。
他にも、ゲルマン民族の移動がなぜ起こったのかとか、帝国の概念とか、ナポレオンのやばさとか、世界大戦の経緯や冷戦~現代史の繋がりなど、言葉だけ知っていた出来事が浅いながらも繋がってくる。
旅行中にそれらを意識すると、観光地の見え方が少し深くなったり発見があったりする。そんな体験が出来たプラハ旅行だった。
旧市街広場
旧市街の広場では、世界各国の観光客がスマホとカメラを掲げて歩きまわっている。スイスのクールでもヨーロッパみを感じたが、ここはその比ではない。
プラハはかつて神聖ローマ帝国時代の中心地として隆盛を誇り、また世界大戦においても最小限の被害に留まったため、美しい建物が奇跡的に残っている。
旧市庁舎
からくり時計が有名な旧市庁舎には夜に登ってみた。
宗教改革を行ったルターに先駆けてプロテスタントの考えを進めたヤン・フスは、15世紀初めに異端者として処刑される。弾圧の動きに反抗し、フス派の人々がカトリックの役人を旧市庁舎の窓から放り投げて(!)殺す、プラハ窓外放出事件があった場所がこの旧市庁舎だ。
下を覗くとかなり高く物騒に感じる。その広場を象徴する銅像はまさにヤン・フスだ。死後500年の1915年に作られたという。チェコはその後の歴史により今やカトリックが多い国だが、国民にとって彼はポジティブな重要人物なのであろう。


プラハ城
プラハ城は期待以上に素晴らしかった。
神聖ローマ帝国の帝王だったカール4世(ボヘミア王としてのカレル1世)の命で作られたプラハ全盛期の象徴、カレル橋が見えてくると俄然テンションが高まる。グーグルマップに従うと、城の順路とは逆の入口に着いたのだが、そこからの街の眺めが美しく、反対側まで570mほどをゆっくりと歩く。
入場料は定番のサーキットで450チェココルナ(≒3400円)。聖ヴィート教会、聖イジー教会、旧王宮、黄金小路を見ることが出来る。
一通り見学した後、街のどこも見渡せるこの城に、色んな国の王が居て統治されていた当時の庶民の感覚はどのようなものだろう、とふと感じた。
前提も何もかも違うが、皇居にモンゴルや中国、朝鮮の王が居たことがあるようなものだろうか。
ここで、ヨーロッパの歴史の複雑さを感じることとなった。




聖クレメント教会でのクラシックコンサート
帰り道、カレル橋の近くにある聖クレメント教会でクラシックコンサートの案内を見つけた。有名な小作品を1時間ほど。1000チェココルナ(≒7600円)と割高ではあったが、音楽の都を味わおうと行ってみた。
バロック様式の美しい教会だが、空調が無く極寒。最初の演奏はぎこちなさを感じたが(手がかじかんでいたのだろう)、途中からスムーズになり、最後には感動的な室内楽を聴くことが出来た。

ドヴォルジャーク博物館
子どもの頃から、チェコと言えばドヴォルジャークとスメタナの印象だった。
恐らく音楽の授業で『ヴルタヴァ』(当時はモルダウと習った)に感銘を受け、また『新世界より』や『ユーモレスク』など、馴染み深い曲に触れていたからだと思う。
当時、何だか土くさい音楽だと感じたことを覚えている。土臭いとは野暮ったいという意味もあるが、そういうニュアンスとは知らず、本当に土のにおいを感じていた気がするし、実際スラブの国に来て同様の感覚を持った。
ドヴォルジャーク博物館では、彼の生涯をまとめた映像を見たり代表作を聴いたりして、2時間半くらい過ごしただろうか。
アメリカで大成功を収めたドヴォルジャークだが、チェコに戻り「世界的な音楽家ではなく、ボヘミアのいちミュージシャンであり続けるであろう」という言葉を残している。また鉄道オタクだった彼は「機関車を発明するためなら、私は交響曲をすべて捧げるだろう」という言葉も残している。何とも魅力的な人物だ。
ミュシャ美術館
ミュシャにはこれまで興味が無かったのだが、ボヘミアの歴史とドヴォルジャークやスメタナの民族への思いを知り、近い時代に活躍した彼はどのような表現をしていたのかなと興味が湧いた。
調べると、キャリア後半にスラブ叙事詩という大作を描いているというではないか(何を今さら)。キラキラした広告ちっくな絵、のイメージだったので、これを機にしっかり観てみようと美術館に行ってみた。すると、心地よい線と甘い色が素晴らしく、その美しさに見惚れてしまった(何を今さら)。
彼はパリで活躍していたが、キャリアの中盤から祖国チェコのための絵を描くようになる。そしてスラブ叙事詩だ。実物はプラハから遠く離れたモラフスキー・クルムロフ城に展示されているため、美術館では一部のレプリカと制作過程の展示のみだったが、それまでとタッチが全く異なる壮大な絵画だった。
彼は70半ばを過ぎて、民族浄化しながら侵攻拡大していたナチス・ドイツのゲシュタポに厳しい取り調べを受ける。チェコ国民の愛国心を高揚させるという咎だ。その後まもなく亡くなると知り胸が痛んだ。私の中での印象が全く変わった画家だった。


ミュシャはドボルジャークやスメタナと同じ民族墓地に眠っているという記述を見て、その足でヴィシャフラド民族墓地に行ってみた。
スメタナの墓石の前で、夕方5時の教会の鐘の音が鳴った。『ヴルタヴァ』のメロディだった。

共産主義博物館、ヴァーツラフ広場
プラハと言えば1968年に起こった民主化運動の『プラハの春』が有名だ。冷戦時にソ連の影響下にあった東欧諸国の歴史も理解しておこうと思い、共産主義博物館へ行ってみた。
展示は1918年にチェコスロバキアが出来たころから始まる。第二次世界大戦でドイツ支配からソ連により解放されその影響下にあり、経済的にも社会主義陣営と繋がりがあったチェコスロバキアは、1948年に共産党が政権を取る。
プラハはソ連の衛星国であったため、スターリンを崇める写真や広告が展示されている。また共産主義プロパガンダの広告や絵も。中国共産党の絵でよく見るタッチだが、国が違っても似てくるのだろうか。
印象的だったのは、反政府者の拷問部屋や取り締まりの肉声が生々しく再現されていたセクションだ。冷戦の頃は世界各国でこういうことが行われていたのだ。今もどこかであるのだろうけど…
プラハの春はソ連によって抑圧され、その21年後のビロード革命(10日間でスムーズに革命がなされたためこの命名とか)まで共産主義は続く。
プラハ一番の目抜き通りと言ってよいヴァーツラフ広場は、旅行中に必ず何回かは歩く場所で、プラハの春やビロード革命の舞台である。当時ここでデモや抗議の焼身自殺があったのか…と当時の市民に少しだけ思いを馳せた。



プラハ中央駅とサウナ
プラハ中央駅近くにサウナを発見し、1か月湯舟なし生活で風呂に飢えていたので入ってみた。
受付でベッドシーツとタオルを渡されて、スーパー銭湯のようなリストバンドで清算する形だ。2時間で489チェココルナ(≒3600円)は若干高く感じるか。
平日4時という半端な時間もあり更衣室には誰もいない。着衣のままサウナ室を偵察してみると裸の女性が居たので倣って入ると、腰にタオルを巻いた男性が歩いてきてびっくり。だから全身に巻けるシーツなんだ。まあ男女が同じ施設を使えるので、合理的ではある。
中はとても清潔で、フィンランドサウナとハーブサウナに計4セット、氷のような水風呂にもチャレンジしてホカホカになった。プラハ旅行の際にはぜひお勧めしたい施設だ。
その後プラハ中央駅まで行ってみる。ほぼモダナイズされているが、一部昔の内装が残っており名所となっている。
実は、旅行の計画段階では、プラハから鉄道でどこかに行こうと考えて4泊5日と長めの滞在にしていた。ただ、プラハの街があまりに素敵なので結局どこにも行かず、じっくり味わうことにしたのであった。

このように美しく歴史あるプラハの旅は私にとって、ヨーロッパとはどういう地域だったのかを学び始めるきっかけとなった。
またプラハ旅行中にイスラエルとアメリカがイランを攻撃をした。中東情勢の背景にも当然、ヨーロッパの歴史が深く関わっている。
奇しくもチェコの次はポーランド、アウシュビッツ=ビルケナウの収容所を訪ねる。ユダヤ人迫害の歴史と、現在の中東紛争について少しでも理解を深められればと思っている。
