オシフィエンチム(アウシュビッツ/ポーランド)の雑記|海外ひとり旅
2025年6月末に休業を始めてから、7月に知覧の特攻会館と沖縄のひめゆりの塔に行き、8月にはカンボジア・プノンペンにあるトゥールスレンとキリングフィールド(ポル・ポト政権下の収容所、虐殺場)の見学の機会を得た。
働いている時は忙しさを理由にあまり考えたことは無かったのだが、以前から思っていた「人はなぜ戦争をするのか」という素朴な疑問を深めてみようと思ったのだ。
実際にそれらの施設を見てみると「人はなぜ、あり得ないような判断・行動をするのか」という疑問が出てきた。古今東西、研究され議論され続けている話ではあるが、私なりにゆっくり考えてみようと思った。
そんな背景で、世界一周旅行の予定を組む際にアウシュビッツを入れた。
旅行には新鮮さを求めるため下準備はあまりしない性質だが、ここはさすがに多少の予習をした。
『ホロコースト百科事典』というサイト(網羅的にまとめられていると思う)を参考に関連の本を数冊読み、フランクルの『夜と霧』を母に借りた。この本は旧版で、フランクルとも交友があった、心理学者の霜山徳爾が1956年に訳している。言い回しが古く読みづらかったが、解説や写真が充実しており、母が若かりし頃に真剣に読んだ痕跡(メモ)もある。重みを感じながら読んだ。
プラハからワルシャワを経由し、夕方前にクラクフ空港に到着した。
バスとトラムで宿泊先のアパートに行き、ドアを開けられないトラブルで1時間ほど時間をロスし(壊す勢いでドアノブを下ろさないと開かないのだ)、荷物を置いて徒歩5分のクラクフ中央駅に行ってみる。
ショッピングモールに入っているカルフールでパンやチーズ、卵などを調達しアパートに戻ると、鼻のあたりに少し違和感を覚えた。あー…風邪のひき始めだ。葛根湯を飲んですぐに寝た。
アウシュビッツ訪問は明後日で、日本人ガイドの中谷剛さんのツアーを予約しているので確実に行きたい。
翌日はクラクフ観光予定だったが諦めて一日寝込み、なんとか行ける状態で当日を迎えられた。鼻とくしゃみがひどいが、発熱がなかったのが不幸中の幸い。


クラクフ中央駅から1時間ほど列車に乗るとオシフィエンチム(Oświęcim)駅に着く。20分ほど歩き、10時前にアウシュビッツ強制収容所に到着した。
中谷さんのツアーは10名弱で、3時間ほどかけて、アウシュビッツは収容所(博物館になっている)と、そこから2キロほど離れたビルケナウ収容所を回る。
辺りには多くの見学客がおり、バスも引っ切り無しに来ている。ただ中谷さん曰く、これでも少ないそうだ(多い時は入場するのに30分かかるとか)。
セキュリティチェックを通り入場すると、かつてここで殺された人々の名前が男性の声で読み上げられている。その音声を聞きながら入口へ向かうと『ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)』の門が現れる。
中谷さんからの注意事項。ここは追悼の場であり遺族がいる可能性があるため、観光地のような振る舞いは控えるように。そうか、博物館であると同時に追悼の場なのだ。背筋が伸びる。
アウシュビッツ収容所は元々、政治犯の収容施設だった。ナチスの『ユダヤ人問題の最終的解決』のため、ここを含む数か所の施設のガス室で何百万もの人々が殲滅された。当日は快晴で3月にしては温かい天気だったが、少し寒さを感じたのは風邪のせいだけではないだろう。

博物館は当時の写真や図解、遺品や、収容所からの生還者が描いた絵などが展示されている。解説が少ないのが特徴で、それは自分の頭で考えて欲しい、という意図らしい。
1947年にこの施設がソ連からポーランドに返還された後、生還者を中心に展示が作られ、しばらくは生還者自身がツアーガイドも行っていたそうだ。現在も、基本的には当時の運営と変わっていない。当事者の思いや考えが反映された設計なのであろう。
中谷さんがまだ駆け出しだった頃は生還者のガイドを盗み聞きして真似ていたという。彼らは意外にも感情的ではなく、時に笑いを織り交ぜながら案内していたそうだ。
当時、ヨーロッパ各地から捕えられたユダヤ人を乗せた列車が収容所に到着すると、囚人の全ての持ち物が没収される。
大量の眼鏡、義足、靴(小さい靴やハイヒールもある)、名前や住所が書かれた鞄や食器(二度と戻ることは無い)、そして髪の毛。
これらの遺品が簡素に展示されている。やはり説明はほぼなく、これを見てお前は何を思う?と突きつけられているような気がした。
展示の中身には賛否があり、「もっとナチスを批判すべき」という声もあるらしい。
確かに、全体的に淡々と事実を述べており、ナチスやヒトラーを直接的に非難するような記述ではなかった。
むしろ、収容所内で、ナチス親衛隊の指示により実質的に囚人たちを管理し手を下していたカポー(彼らもまた囚人)の所業が目立つようにも見えた。
個人的には「どんな人でも状況により残酷になり得る」ことを忘れるな、と伝えているのかなと感じた。





展示室を出ると、収容所所長だったナチス親衛隊の大佐、ルドルフ・ヘスが1947年に処刑された絞首台があった。そのすぐ近くに当時のヘスの自宅が見える。
少し前に話題になった映画『関心領域』をアマプラで観て、後味の悪さにしばらく凹んだことを思い出した。本当にこんなに近い場所だったのか…
映画の中で、ヘス宅を訪ねた妻の母が焼却炉の臭いに耐えられなくなるシーンが思い浮かぶ。
アウシュビッツ博物館を一通り見学した後、バスで10分ほどでビルケナウ収容所に着く。
門をくぐり、囚人が強制労働により作ったぼこぼこの道を歩く。その横には同じく囚人が掘った水路が流れている。
囚人たちの寝床だったバラックに入ると、ベッドとして使われていたゆがんだ蚕棚があった。小さな暖房はあるがその近くはカポーに取られ、多くの囚人たちは、冬は氷点下20度になる極寒の中で、薄い毛布1枚で寝ていたという。
フランクルの『夜と霧』を思い出す。こんな極限状態でも、生きる意味を見出せる人がいる。人間の限りない可能性だと感じる。
アウシュビッツ収容所のガス室は途中から別の用途となったため当時のまま残っていたが、ビルケナウ収容所のガス室はより大量の殲滅施設として最後まで稼働しており、戦争終盤に証拠隠滅のためナチスによって爆破され、がれきの状態となっている。
またユダヤ人を輸送する列車の線路がガス室の手前まで伸びている。当時使われていた列車が停車していて、思いのほか状態が良く驚く。博物館の方で囚人が運び込まれる写真を見ていたが、現場はリアルで胸がつまる。
ガス室から続く焼却炉の遺構にはたくさんの小石が積まれていた。ユダヤ教における死者への敬意、追悼の意だそうだ。一瞬、私も積もうかと思ったがやめておいた。



ツアーが終わり、帰りの列車の中で徒然なるままに思ったこと。
はるか昔から、ユダヤ人は異教徒として(またそれ以外の文脈も足されて)迫害されて来た。ホロコーストがその最悪の結末だが、そこからイスラエルが建国され今度はパレスチナを迫害し、憎しみの連鎖が続いている。
アウシュビッツを見た後だと、ユダヤ人がどう思われようがどういう手段を取ろうが、自らの居場所を死守しようとする理由はあるよね、と思ってしまう。
他国の様々な思惑も含め混乱が極まっているが、果たしていつか中東情勢の解決は実現するのだろうか。というか何をもって解決になるのだろうか。
また、人はなぜ、あり得ないような判断・行動をするのか?という疑問は、生々しい展示を見た後にさらに強まった。
『悪の凡庸さ』を説いた哲学者、ハンナ・アーレントの映画を思い出す。以前観た時は正直あまりピンと来なかったが、今なら能動的に観られそうだ。
また『関心領域』では最後にヘスが吐き気を催す(吐いた?)シーンがあった。現代のアウシュビッツ博物館の映像と交互のカットも。罪の意識の表れを表現したとの解説を読んだ記憶があるが、今、自分なりに解釈してみたい。
どちらの映画も観るのに体力が要るが、帰国後に観てみようと思った。
他には、ヒトラー率いるナチ党が最初に選挙に勝った時、たった30%の支持だったという中谷さんの言葉。
ナチスの台頭は、第一次世界大戦の敗戦に伴う賠償金と世界恐慌からくる不況に苦しむ人々からの支持によるものだが、国民は徐々にヒトラーに全てを託すことを期待し、全権委任法が成立して独裁が確立された。
今の日本は厳しい経済状況が続く中、衆院選で自民党が圧勝し、高市政権が推し進めることをどんどんやれば良いという論調が一部で強まっていることと構造は似ている。
このままだと日本も独裁政権になる…と恐れるほどナイーブではないつもりだが、一部のネットの言論に対しては冷静にならなきゃね、と思う。
そして、結局私がここで学んだことは何か?も考えた。今と未来を生きるために歴史を学ぶ意義は分かる。でも、主語が「私たち」ではなく「私」になった途端、歴史を知ったところで影響できることなんて無いなと思ってしまう。なかなか自分ごとにならない。
とりあえず、アウシュビッツを実際に見て感じたことを家族や友人に話そうと思った。私の話が正しいかどうかは別として、この出来事をより深く知ること、意見を交わすこと自体に問題はないはずだ。
ヨーロッパ各国の高校生は歴史教育の一環としてこの博物館を訪れるそうで、当日も多くの学生が展示に見入っていた。この歴史を忘れず、繰り返さないことを徹底するため、ヨーロッパでは歴史教育は重要視されているとのこと。
日本でも、2022年度から高校で歴史総合という必須科目が出来たという。混沌とする世界情勢に耐えうるには、暗記だけでなく問いを立てる総合的な学習が必要だという背景で、近現代の日本史と世界史を関連付けて学んでいるそうだ。
高校を卒業して四半世紀になる私も、遅ればせながら歴史総合を学び始めているようなものだろうか。
以上、観光ゼロ・外食ゼロのポーランド滞在だった。ワルシャワやクラクフの街歩きは次回訪問時の楽しみにしておこう。
次の場所はアドリア海の真珠ことクロアチアのドゥブロヴニク。美しい景色と共に、またヨーロッパの複雑な歴史に触れる旅行となった。
旅行は進むがnoteは滞る一方だ。記憶が新たな間に更新できますように。
