ドゥブロヴニク(クロアチア)の雑記|海外ひとり旅
クラクフを出てウィーンを経由し、クロアチアのドゥブロヴニク空港に到着したのはお昼過ぎ。
ここは帯広や苫小牧と同じ緯度だが、地中海気候の3月ともなれば暖かく、空は青く晴れ渡っている。旧市街にある宿泊先までバスで30分、途中からアドリア海と旧市街が現れ、その美しさに息をのむ。
旧市街の入り口付近にあるアパートに荷物を置くと、いつものように近くのスーパーで食料品の買い出しをした。オイルサーディンが安い。絶対に美味しいので2缶買う(間違いなかった)。今回も外食せず乗り切る所存だ。
クラクフでひいた風邪を治しきるべく、その日は20分ほど旧市街を偵察した後、アパートでゆっくり休んだ。
『アドリア海の真珠』と言われるドゥブロヴニクの存在を知ってから、いつか行ってみたいと思っていた。移動時間にyoutubeでいくつか動画で予習すると、クロアチアが旧ユーゴスラヴィアの国だったということを初めて知った。中高生の時、ユーゴスラヴィアやコソヴォといった地名をよくニュースで耳にしたが、内戦って怖いな、ぐらいの印象で、その背景を知ろうとはしていなかった。
ユーゴスラヴィア(ユーゴ=南、スラヴィア=スラブ人の住む地)は、第一次世界大戦後、汎スラブ主義を背景に南スラブの国々が集まってできた国だ。
第二次世界大戦中にドイツに侵攻され、その後チトー率いるパルチザンにより、(他の東欧諸国と異なり)ソ連の力を借りず自力でドイツから独立する。そのチトーのカリスマと能力をもって『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』がまとまっていたと言われる。
ソ連とは一線を画した独自の社会主義で国家運営されていたが、経済格差や民族宗教の違いから、チトーの死後、当然のように各国の不満が表出することとなる。
1991年のスロベニア独立戦争がユーゴスラヴィア内戦の始まりとされる。当時私は小学生低学年だ。
続くクロアチア独立戦争におけるドゥブロヴニク紛争は91年~92年。美しい旧市街も、ユーゴ内のリーダー格(体制側とでも言うのだろうか?)であるセルビア・モンテネグロ勢力に攻撃されている。
各国で長い争いが続き、国連やNATO軍も巻き込みながらなんとか終結し、ユーゴスラヴィアが解体したのは2000年代に入ってからだ。
チェコの画家ミュシャが、汎スラブ主義を掲げ『スラブ叙事詩』を描いたことを思い出す。同じスラブでも、宗教や民族が違う国同士が一緒になるのは夢物語だったのだろうか。
と歴史の復習をしたところで、ドゥブロヴニクの美しい景色をここに残しておきたいと思う。



旧市街の裏には400mほど高さのスルジ山があり、ケーブルカーで山頂に登り見下ろす景色が非常に有名だ。
滞在中はケーブルカーが休業していたため、マップで調べると1時間ほどで登れるようだった(節約旅行にタクシーの選択肢は無し)。病み上がりで若干不安はあったが登ってみた。
道は石灰岩がむき出しで足場は悪く、結構急な上り坂だ。
オリーブやサボテン、地中海気候に生息する黄色い花が美しく、またどこからでも美しいアドリア海と街が見えるので、足元と景色を交互に見ながらゆっくり進む。
途中から車道が始まり、そこを抜けると視界がひらけて、ボスニア・ヘルツェゴヴィナとの国境にある壮大な山々を見渡せる。


山頂にはクロアチア紛争博物館があったので、歴史づいている(?)身としては見逃せず、入場した。
ナポレオンが建て、ドゥブロヴニク攻撃の際にも使われた要塞をそのまま博物館として使用しており、館内は湿気が強くかび臭く、得も言われぬ雰囲気がある。
展示は、攻撃前後~戦争後にかけての時系列の詳細な解説や写真、爆弾や銃などで充実している。前に行ったアウシュビッツの簡素な展示と対照的だ。また、セルビア・モンテネグロ勢力を明確に『敵』と表現しており、その非道さを事細かに訴えている。たった35年前のこと、まだ当時の記憶を生々しく持つ人も多いだろう。
ドゥブロヴニクは中世から海洋国家として発展し、その豊かな街は1979年に世界遺産に登録されている。
戦争が起こってもここが狙われることは無いと考えられていたため、セルビア・モンテネグロの攻撃は想定外だった。住民は船で避難したが、巻き添えで命を落とした人も多くいる。その名前と生年月日が展示されており、私と同い年前後の子も多かった。生きていたらどういう風になっていただろう。
旧市街には当時爆弾が直撃した建物や道もあるが、しっかりと補修されており、歩いているだけでは分からなかった。ただ、館内で当時のイギリスのニュースが流れており、レポーターの後ろで爆撃を受けるドゥブロヴニクの映像は衝撃的だった。恐らく日本でも放送されていただろう。避難した住民たちは、その映像を絶望的な気持ちで見ていたのだろう。


紛争博物館の階段を登ると屋上に出られるのだが、そこからの眺めが素晴らしく、重くなった気持ちを晴らしてくれた。
山頂の展望台から景色を見ると、どうしてもケーブルカーの電線が見えるのだが、この屋上からだと視界に入らないのだ。誰もおらず、景色を独り占めしているような気分だった。
帰り道は夕日が見えるよう時間を計算しながら下山した。とにかく色々と目に焼き付けておきたい1日だった。


最終日にやっと観光の目玉である旧市街の城壁を歩いた。
ドゥブロヴニクは中世の海洋都市国家として、ヴェネチアなど外敵から守るために壁を作った。海側は厚さ1.5~5m、高さ25m、街全体を包括する要塞都市として発展したというわけだ。要塞には海に向けた砲台や小窓も多く残っている。
またここは『魔女の宅急便』『紅の豚』の舞台のモデルの一つとも言われているので、ジブリをBGMに1時間半ほどかけてゆっくり一周する。観光客も多すぎず、暑すぎず、本当に良い時期に来たと思う(3月はお勧め)。
城壁からは、教会や聖堂などの歴史的建物はもちろん、洗濯物やこどもの遊ぶ姿など、住民の生活の様子が見えるのも面白かった。
城壁から降りた後は近くにあるロブリイェナッツ要塞にも上った。ここからの旧市街の眺めは城壁の形状がよく分かり、また違う魅力のある眺めだ。




ドゥブロヴニクではちょっと面白い出会いもあった。
夜の旧市街を見ようと門をくぐると、男性が話しかけてきた。あそこには行ったか?案内するから行こう、などなど。
相手をして後でお金取られるのもなあと思い断るが、僕はボスニア人で、ストレッチやヨガを教えていて、旅行者とのコミュニケーションが好きなだけだ、とインスタやwhatsappを見せ、不審者じゃないことをアピールしてくる。
辺りに人もいるし、このボスニアンガイも人相は悪くない。病み上がりで体も凝っていたので、港に行って少しだけストレッチを教えてもらうことにした。
意外にも(?)コツを押さえてしっかりとレクチャーしてくれて、世界遺産の港で、星空を見ながらストレッチするという体験をすることとなった。
ストレッチをしながら「君はまだ若いんだから姿勢を良くすべきだ、現代人はスマホを見すぎだ、日本人はあまりに働きすぎだ」などと色々と説教してきて、ちょっと鬱陶しくなってきた。
帰ろうとすると連絡先を交換したいと言われる。
断っても聞いてくるので、ちょっと意地悪な気持ちで、年齢を言ったら引き下がるかも?と思った。南米ヨーロッパでは、帽子を被った私の見た目相場は20代半ばだった。
彼を30代後半と想定し、あなたより年上と思う、と言うと僕は30過ぎてるよと。被せて私は40過ぎてると返すと、信じられないという顔で、20代半ばかと思った、君は歳を言わない方が良いと思う、と言われる。余計なお世話じゃ、と笑ってしまう。
驚いている彼にnice meeting you! とキュッと握手してサッと帰った。
こういうやり取り、アジア人女性の旅行あるあるじゃないだろうか。

もう一つの出会いは荷物置き場の家の親子だ。
宿泊先のチェックアウト後、荷物を置いておけないと言われ、紹介されたのが、普通の民家に荷物を預けるサービスだった。
重たいバックパックを背負って坂と階段を登り、汗をかきかきその家に行くと、素敵なマダムが冷たい水を出してくれて、家の居間から景色を見せてくれた。
正直、その景色がドゥブロヴニクで一番良かったかもしれない。
その後観光して荷物を取りに行くと、息子がいた。空港までuberで行くつもりだと言うと、同じ値段で車を出すとのこと。Uber価格から2割引で乗せてもらった。
彼は1992年に今の家で生まれたそうだ。紛争のさなかでご両親は大変だっただろう。
「セルビア人に対してどういう感情か?」を控えめに尋ねてみると、難しいね…と言いながら、人に対しては特に何も思わないしスポーツでも良い関係があるとのことだった。
ただ、国に対しては良く思わない。彼らはクロアチア人を攻撃し追放し、地雷を置いていった。そのことは決して忘れない、と言っていた。
一方でクロアチアは第二次世界大戦中、ムッソリーニやヒトラーを後ろ盾にしたファシスト政党が強制収容所を作ったり、セルビア人を虐殺した歴史もある。
どこを切り取りどの立場を取るかで歴史の見え方は変わってくるよな、と思いながら空港で車を降りた。
宝石のような街並みの裏側に、悲しい影のある場所だった。

次の国はギリシャのアテネ、地中海が続く。
