Mirim心のアトリエ 「戦争反対は正しい。でも今の反戦運動はズレている」
戦争反対。
それは誰もが否定できない「正しさ」だ。
だが、今の反戦運動は本当にその正しさに向き合っているのだろうか。
♦️第1章 反戦は正しい。だが運動はズレている
わたしは、反戦そのものに違和感を持っているわけではない。
戦争反対。それは当然だ。
否定する理由はないし、むしろ前提として共有されているべき価値観だと思っている。
だが、わたしが違和感を持っているのは、その「反戦」を掲げて行われている運動のあり方だ。
戦争反対と大きく書かれたスローガン。
そして、その矛先は日本の国政に向き、改憲反対や軍事強化反対へと接続されていく。
その構図を見たとき、わたしは強い引っかかりを覚える。
それは本当に、戦争に向き合っている行動なのか。
そもそも、反戦という意識は、過去にすでに社会の中へ広く浸透している。
ベトナム戦争が終結し、朝鮮戦争も過去のものとなった後、世界は冷戦構造の中に入った。
東西対立、核軍拡、見えない緊張。
直接の戦闘がなくとも、常に戦争の可能性が背後にあった時代だ。
その時代、日本でも「戦争は繰り返してはならない」という空気は強く存在していた。
ただし、その形成過程には問題がある。
教育の現場では、戦争の悲惨さが繰り返し教えられた。
だが同時に、自国の過去を一方的に断罪するような教え方や、日本人自身に「加害者の子孫」「戦犯国家の一員」という認識を過度に背負わせるような価値観が、事実上押し付けられてきた側面がある。
日教組の影響も含め、その教育方針に対して、わたしは遺憾の意を持つ。
戦争の悲惨さを学ぶことと、自国への過度な否定感情を植え付けることは、同じではない。
ここを混同したまま反戦意識を形成してきたことが、現在の運動の歪みに繋がっているように見える。
さらに問題は、その後の現実との乖離だ。
世界では戦争が続いていた。
イラン・イラク戦争。
中東の紛争。
テロと報復の連鎖。
テレビでは空爆の映像が流れ、都市が破壊されていく様子が日常的に報道されていた。
しかし、その現実に対して、日本で社会全体を巻き込むような反戦運動が展開されたかといえば、そうではない。
戦争反対という意識はある。
だが、その意識が現実の戦争に向かうことはなかった。
この時点で、わたしの中にひとつの疑問が生まれる。
反戦とは、本当に戦争そのものに向けられているのか。
そして現在。
ロシアとウクライナの戦争が起きている。
イランとアメリカの武力衝突も起きている。
明確な侵略があり、多くの人命が失われている。これは誰が見ても、現実の戦争だ。
ならば反戦運動は、まずそこに向かうべきではないのか。
だが実際に行われているのは、日本国内で、日本政府に向けた反戦運動だ。
戦争反対というスローガンのもと、改憲反対が掲げられる。
ここに、決定的なズレがある。
戦争そのものではなく、自国の政策に話がすり替わっている。
その結果、反戦運動は「世界平和のための行動」ではなく、「日本が戦争に関わらないための主張」へと収束していく。
この構造に、わたしは強い違和感を持つ。
それは本当に、反戦運動と呼べるのだろうか。
♦️第2章 そのズレはどこから生まれるのか
では、なぜこのようなズレが生まれるのか。
わたしは、その理由は一つではなく、いくつかの要因が重なっていると考えている。
まず前提として、人は「現実そのもの」ではなく、「自分が理解できる範囲の現実」しか扱えない。
ロシアとウクライナの戦争。
中東の紛争。
テロと報復の連鎖。
これらは確かに現実として存在している。
だが、それを自分ごととして捉えることは難しい。
距離があり、文化が違い、直接の利害関係が見えにくいからだ。
その結果、人は無意識に現実を引き寄せる。
「日本がどう関わるのか」
「自分たちの生活に影響があるのか」
この変換自体は、人間として自然な反応だ。
だが問題は、その先にある。
本来であれば、「現実の戦争」を起点にして、「日本がどうあるべきか」を考えるべきだ。
しかし実際には、その順序が逆転している。
最初に「改憲反対」「軍事強化反対」という結論があり、その正当化のために「反戦」という言葉が使われる。
つまり、反戦は目的ではなく、手段として消費されている。
この構造が、運動そのものを弱くしている。
なぜなら、戦争そのものに向き合っていないからだ。
ロシアの侵略をどう捉えるのか。
なぜ衝突が起きたのか。
どのような力関係が背景にあるのか。
こうした問いを経由せず、「戦争反対」という言葉だけが先行する。
その結果、言葉は現実と切断される。
ここでさらに問題が深まる。
この構造は、左右の対立を激化させる。
いわゆる保守と呼ばれる側は、それを見て「現実を見ていない」と批判する。
一方で、リベラルと呼ばれる側は、保守の主張を「過激」として切り捨てる。
だが、わたしはこの対立を単純に否定するべきではないと思っている。
なぜなら、その両方の根底には、それぞれの正義があり、日本という国に対する思いがあるからだ。
方向性は違う。
方法も違う。
だが、「この国をどうするべきか」を真剣に考えているという点では、共通している。
だからこそ、相手を「過激」「お花畑」とラベリングして切り捨てることは、本質的な議論を止める行為にしかならない。
そして、その雑な切り分けの中で、反戦という言葉もまた消費されていく。
本来、反戦とは「戦争という現実」に向き合う行為であるはずだ。
だが現在の多くの反戦運動は、「戦争そのもの」ではなく、「自分たちの立場」に焦点を当てている。
その結果、運動は内向きになる。
「日本が関わるべきではない」
「日本は戦争から距離を置くべきだ」
この主張自体は理解できる。
だが、それだけでは「戦争をどうするか」という問いには答えていない。
つまり、問題の核心に触れていない。
この状態では、どれだけ正しい言葉を使っても、説得力は生まれない。
むしろ、「結局は自分たちが巻き込まれたくないだけではないか」という疑問を招く。
そしてその疑問は、多くの場合、否定しきれない。
ここに、わたしの感じている違和感の正体がある。
反戦という言葉は正しい。
だが、その言葉を掲げるのであれば、まず現実に向き合わなければならない。
誰が何をしているのか。
なぜ戦争が起きているのか。
どのような構造で衝突が生まれているのか。
そこから目を逸らしたままの反戦は、どれだけ声を上げても、現実に影響を与えることはできない。
それはもはや運動ではなく、自己完結した表現に近い。
そして、その時点で人は離れていく。
反戦運動が本当に意味を持つためには、その順序を取り戻すしかない。
現実から出発し、現実に向き合い、その上で自分の立場を語る。
そのとき初めて、「戦争反対」は言葉ではなく意味になるのだと思う。
結局のところ、いま行われている多くの反戦運動は、
戦争そのものに向き合っているというよりも、
自分がどちら側に立っているのかを確認する行為に近いのかもしれない。
戦争反対。
その言葉は、もはや答えとして共有されている。
だからこそ、人はそれをもう一度口にし、
行動として外に出すことで、
「自分は間違っていない」と確かめたくなる。
それは世界を変えた実感ではない。
自分の立ち位置が確定したという実感だ。
だが、その瞬間に満足してしまったとき、
反戦は現実から切り離される。
戦争に反対するのであれば、
まず向き合うべきは、現実に起きている戦争のはずだ。
そうでなければ、その言葉は、
ただの「答え合わせ」で終わってしまうのではないだろうか。
Fin
読んだよの合図にスキだけ押していってね。こういうテーマも、また書く。
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