ミリムの心のアトリエシリーズ-81年後、『原爆は存在しなかった』という言葉に出会った
♦️前書き
今日は、8月9日。
81年前の今日、長崎に原子爆弾が投下された。
そんな日に、わたしは偶然、ある言葉を目にした。
「原爆は、そもそも落とされていない」
原爆投下は正しかったのか、間違っていたのか。
そんな議論ではない。
原爆投下そのものが「なかった」というのだ。
81年という時間は、
歴史をここまで遠くへ連れていってしまうのだろうか。
今日は、そのことを少し考えてみたい。
♦️第1章 「原爆は落とされていない」という言葉
最初に目にしたのは、こんな主張だった。
「空から原爆が落とされたなんて信じない」
さらに、
「当時の飛行機で、4トンもある原爆を運べるはずがない」
「残されている映像は作り物だ」
そして別のところでは、
「地上に爆薬を仕掛け、それを連鎖的に爆発させたのではないか」
という説まで語られていた。
わたしは、しばらく画面を見つめてしまった。
原爆投下をどう評価するか、ではない。
1945年8月6日の広島。
そして8月9日の長崎。
その出来事そのものを、
「なかった」
と考える人がいる。
もちろん、
歴史に疑問を持つこと自体は悪いことではないと思う。
教科書に書かれているから。
テレビで見たから。
多くの人がそう言っているから。
それだけで何でも信じる必要はない。
でも、
疑問を持ったなら、
その次に必要なのは確かめることだ。
原爆投下については、
アメリカ側の作戦記録だけではなく、
日本側にも記録が残っている。
被爆した人々の証言。
医師たちの記録。
破壊された建物。
熱線や爆風によって残された痕跡。
放射線被害について積み重ねられてきた調査。
ひとつの映像だけで、
この歴史が語られているわけではない。
異なる場所に残された、
多くの記録が重なっている。
だからこそ、
わたしが怖いと思ったのは、
「そんな陰謀論があること」
だけではなかった。
これほど多くの記録が残された出来事でさえ、
81年という時間が過ぎれば、
「本当は、なかったんじゃないか」
という言葉が生まれる。
そのことだった。
♦️第2章 「もっともらしい疑問」を、ひとつずつ確かめる
「4トンもある原爆を、当時の飛行機で運べるはずがない」
そう言われると、
当時の航空機を知らない人には、
少しだけ「そうなのかな」と思えてしまうかもしれない。
でも、調べてみると話は違う。
B-29は、もともと大量の爆弾を積み、
長距離を飛ぶためにつくられた大型爆撃機だった。
さらに原爆投下に使用された機体には、
原子爆弾を搭載するための特別な改修まで施されていた。
つまり、
「4トンもあるから運べない」
という疑問は、
当時の航空機の性能を確かめれば答えが出る。
では、
「地上に大量の爆薬を仕掛け、
連鎖的に爆発させたのではないか」
という説はどうだろう。
ここでも、大きなものが抜け落ちている。
原爆が残したものは、
建物の破壊だけではない。
強烈な熱線。
爆風。
そして、放射線。
爆心地付近では、
熱線を受けた石や瓦の表面に変化が残った。
人や物が熱線を遮った部分と、
直接受けた部分との違いが残された場所もある。
さらに被爆後、
外傷だけでは説明できない症状に苦しむ人々が現れ、
その後も長期間にわたって医学的な調査が続けられた。
地面に仕掛けた通常の爆薬だけでは、
それらをまとめて説明することができない。
そして、もうひとつ。
「映像が作り物だから、原爆も作り話だ」
という考え方。
ここにも落とし穴がある。
私たちがテレビやインターネットで見てきた
「原爆の映像」のすべてが、
広島や長崎の爆発の瞬間を撮影したものとは限らない。
核実験の映像が、
原爆の仕組みを説明する資料として使われることもある。
だから、
「この映像は広島ではない」
という指摘が正しい場合があったとしても、
そこから、
「だから広島に原爆は落ちなかった」
とはならない。
歴史は、
一本の映像だけで証明されるものではないからだ。
日本に残された記録。
アメリカに残された作戦記録。
被爆した人々の証言。
医師たちの記録。
建物や石、瓦に残された痕跡。
放射線被害について積み重ねられてきた研究。
それぞれ別の場所に存在するものが、
同じ1945年8月の出来事を指している。
疑問を持つこと自体は、
悪いことではない。
むしろ、
「本当にそうなのだろうか」と考えることは大切だと思う。
でも――
疑うことと、
確かめることは違う。
疑問を持ったその先で、
自分の考えと違う資料にも手を伸ばせるか。
そこまでして初めて、
「疑う」という行為には、
意味が生まれるのではないだろうか。
♦️第3章 81年という時間が、記憶を「物語」に変えていく
なぜ、
「原爆は落とされていない」
という言葉が生まれるのだろう。
わたしは、そのことを考えた。
1945年8月9日。
あの日の長崎にいた人にとって、
原爆は「歴史」ではなかった。
目の前で起きた現実だった。
空が光った。
街が壊れた。
家族を失った。
火傷を負った。
そして、
昨日まで隣にいた人がいなくなった。
そこに、
「本当に原爆なんて落ちたの?」
という疑問が入り込む余地はなかったはずだ。
けれど、81年が過ぎた。
体験した人が少なくなり、
体験した人から直接話を聞いた人も、
少しずつ少なくなっていく。
やがて、
「体験」は「証言」になり、
「証言」は「記録」になり、
「記録」は、
スマートフォンの画面に表示される
ひとつの情報になる。
ここに、
今という時代の怖さがあるのかもしれない。
画面の中では、
81年前に残された記録も、
昨日誰かが投稿した陰謀論も、
同じ大きさの文字で表示される。
歴史学者が何十年もかけて調べた資料の隣に、
「実は地面に爆薬を埋めていただけだ」
という言葉が並ぶ。
そして、ときには後者のほうが刺激的で、
面白く見えてしまう。
「みんなが知らない真実」
「教科書では教えてくれない話」
「世界中が騙されている」
そんな言葉には、
人の目を引きつける力がある。
けれど、
事実は、
面白さを競っているわけではない。
81年前に何が起きたのかは、
「どちらの物語が魅力的か」
で決まるものではない。
残された資料を確かめ、
違う立場から残された記録を照らし合わせ、
それでも一致するものを探していく。
本来、
歴史を知るということは、
そういう地道な作業なのだと思う。
そしてわたしは、
少し怖いことを考えた。
あと20年。
あと50年。
あと100年。
そのとき、
広島や長崎を実際に知る人が
誰もいなくなった世界で、
私たちは何を頼りに
「あの日は確かにあった」と言えるのだろう。
時間は、
傷を癒やしてくれる。
でも同時に、
時間は、
記憶と現実との距離も広げていく。
だから歴史は、
ただ残っていくものではなく、
誰かが確かめ、
誰かが伝え、
次の人へ手渡していかなければ、
少しずつ遠くなってしまうものなのかもしれない。
♦️第4章 記憶を手渡すということ
今日、8月9日。
長崎に原子爆弾が投下されてから、
81年が経った。
わたしは今日、
「原爆は落とされていない」
という言葉を初めて目にした。
最初は、
どうしてそんなことを信じられるのだろうと思った。
でも、この記事を書きながら、
少しだけ考え方が変わった。
大切なのは、
その人を笑うことでも、
言い負かすことでもない。
「あったものは、あった」
そのことを、
確かめられる形で残していくことなのだと思う。
広島にも、
長崎にも、
そこで生きていた人がいた。
朝起きて、
家族と話して、
仕事へ向かい、
学校へ行き、
今日も昨日と同じ一日が続くと思っていた人たちがいた。
その日常が、
ある瞬間に壊れた。
これは物語ではない。
誰かが後から作った設定でもない。
記録があり、
証言があり、
今も残るものがある。
原爆投下は正しかったのか。
戦争を終わらせるために必要だったのか。
その問いについては、
これからもさまざまな考え方があるだろう。
議論していいと思う。
むしろ、
考え続けなければならないことなのだと思う。
でも、
「正しかったのか、間違っていたのか」
と、
「そもそも、なかった」
は、
まったく違う。
事実があって初めて、
私たちはその意味を考えることができる。
81年。
それは、
人間ひとりの人生よりも長い時間だ。
記憶している人がいなくなれば、
いつか歴史は、
文字と写真と映像だけになる。
だからこそ、
残された私たちが確かめる。
そして、
次の人へ手渡す。
大げさなことではなく、
「確かに、あったんだよ」
と伝える。
それだけでもいいのだと思う。
今日という日に、
偶然あの言葉を目にしたことにも、
何か意味があったのかもしれない。
1945年8月9日。
長崎。
午前11時2分。
あの日から、81年。
時間がどれほど流れても、
起きたことまで、
なかったことにはならない。
そのことだけは、
忘れないでいたい。
fin
心のアトリエシリーズ
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