パブリックドメインという文化の宝箱3
第3章 フェアユースとは
前章では、文化の宝箱を開けにくくしている「現代の壁」について触れました。では、その鍵を少しでも開ける方法はあるのか。そのヒントとなるのが、「フェアユース(Fair Use)」という考え方です。
1. 「許される利用」ではなく「文化を生かす自由」
日本では「フェアユース」という言葉にあまり馴染みがありません。アメリカなどで認められている“例外規定”のひとつとして説明されることが多いですが、大切なのは法文の細かい定義ではなく、その背後にある思想です。
フェアユースとは「文化を守るため」ではなく「文化を生かすため」の自由。作品を永遠に箱にしまっておくことではなく、社会の中で再利用され、再文脈化されてこそ文化は呼吸を続ける。その哲学が根幹にあります。
2. 1983年の予告篇群 ─ ある「記録の実験」
今、私が取り組もうとしていることがあります。1983年に放映され家庭用ビデオデッキで録画したテレビ映画の「予告篇群(200本ほど)」をネットで公開する試みです。
(念のため、これはパブリックドメインの話とは別です。別ではありますが、隣り合わせの文脈で語るべきでもあるので書いています。)
80年代前半のテレビ番組は、放送局も配給会社も、番宣素材を系統的に保存していませんでした。つまり、誰も残していない。あの時代の30秒、1分の“次週予告”には放送文化、時代の息遣いが詰まっているのに、です。
私はそれを、文化の断片を引き出す作業だと思っています。
商業的な再利用ではなく、失われつつある「公共の記憶」をもう一度可視化するための実験。それが、この「1983年予告篇群」アーカイブ計画です。
まだ公開はしていません。
しかし、いつかこの映像群を“誰も損をしない形”で社会に還元することを目指しています。そのためにフェアユースという発想、「使うことで文化が生き延びる」という考え方が必要になるのです。
3. 「誰も損をしない」利用とは
フェアユースの核心は「誰も損をしない利用」が本当に可能か、という問いにあります。権利者の保護は当然ですが、文化的・教育的価値が圧倒的に上回るケースでは、社会としてどのように再利用を認めるか。その判断軸が問われます。
1983年の予告篇群もそうです。
商業的な価値はすでに失われています。それでも、放送文化史や翻訳史、メディア研究の視点で見れば、かけがえのない一次資料です。
私はそれを「利用」ではなく「継承」として扱いたい。そのために必要なのは、法律よりも、“文化的フェアユース”という倫理の成熟です。要するに、制度ではなく「文化を扱う人間の良識」が試されているのです。
4. 「文化庁ブラックホール」を避けるために
文化は囲い込みではなく循環によって守られます。ところが現実には、「保護するための保管」が目的化し、アクセスも利用もできない“ブラックホール”のような状況が生まれています。
私はそれを、半ば冗談で「文化庁ブラックホール」と呼んでいます。膨大な映像や記録が「安全のため」に保管され、結局誰も見られない。結果として「誰も見られないことで守られている文化」が増えているのです。
フェアユースは、このブラックホールに傾く文化を救い出す小さな通路です。それは無秩序な自由ではなく「生かすための余白」を社会に残す思想。
そして、その余白の存在こそが、未来の創造を支えます。
5. 「未来に使われること」を前提に残す
私が予告篇群をアーカイブしようとしているのは、過去を保存したいからというより、未来に使ってもらいたいからです。
40年前の番宣が、100年後の映像研究者や教育現場で「当時の社会感覚を再発見する資料」になるかもしれない。そう思えば、記録の意義は十分にある。それこそが、フェアユースの理想的な形だと思うのです。
文化は使われてこそ、生き残る。それを現実の形にしていくのが、私が考える“小さな実験”です。
フェアユースとは、単なる「例外規定」ではなく、文化を呼吸させるための“知恵”です。著作権は守るための制度であると同時に生かすための装置でもあるべきだと思います。
過去を封印するよりも、未来に開く。そのために必要なのは、許可ではなく、信頼。ルールではなく、良識。
フェアユースとは文化を息づかせるための「小さな自由」だと思います。
次回予告:
第4章では、AI時代の「創作と引用」をテーマに、
「AIはコピーするのか、それとも継承するのか」を考えます。
