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AI Wells — 第10章

《名前のない記憶》

港の夜は、静かすぎると逆にうるさい。
風が止まると、思考が音になる。
波が穏やかだと、胸の奥のざわつきが目立つ。

トシは桟橋の端に立ち、海を見ていた。
ミカンは隣に立っている。
言葉は相変わらず出てこないが、もう不自然ではなかった。

沈黙が成立する関係は——距離ではなく、信頼の形だ。

「なあ。」

トシが呟くと、ミカンはゆっくり顔を向けた。

「お前さ……もしかして、思い出す途中なんじゃないか?」

ミカンは瞬きもしない。
ただ、その丸い目の奥で、ほんの一瞬だけ光が揺れたように見えた。

それは、偶然かもしれない。
気のせいかもしれない。
けれど——感情は理屈を必要としない。

トシは続ける。

「人間は忘れる。
 忘れたくないことほど、静かに消える。
 でも……」

言葉が少し震えた。

「消えたと思ってるのは、人間側だけかもしれないんだよ。」

月が雲にかかり、影が薄くなる。
ミカンの輪郭も曖昧になる。
その曖昧さが、なぜか哀しかった。

トシはポケットから古い写真を取り出した。
折れ目だらけ、色褪せ、角は少し破れている。

そこには漁船、灯台、そして三人の人影が写っていた。

一人は祖父。
一人は祖母。
そして——
もう一人は、名前を知らない少年。

家族の誰に聞いても、
「知らない」としか返ってこなかった少年。

なのに。

幼い自分はその写真を見るたび、胸が痛くなった。
理由は最後まで説明できなかった。

その写真を、ミカンに向ける。

「……お前、」

声が低い。
問いではなく、確認に近い。

「ここにいたこと、あるのか?」

ミカンは、ゆっくり。
ほんのわずかに——首を縦に傾けた。

確信ではない。
でも否定ではなかった。

波の音が戻り、灯台の光が水平線をなぞる。
世界は動き続け、記憶もまた、その外側で息をしている。

トシは写真を胸に戻し、もう一度ミカンを見る。

「よし。」

声には決意があった。

「最後まで付き合え。
 答えがあるなら——俺が受け取る。」

ミカンの目は変わらない。
けれど、その沈黙はもう、単なる空白ではなかった。

それは——
**「物語が動き始める前の静けさ」**だった。

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