掌編小説 | 仕分け係
ぼくは星屑郵便局の仕分け係だ。
朝イチから荷物を棚に並べ、名前を確認して、また次の荷物を受け取る。星屑郵便局の棚に、荷物を正しく並べる。ただそれだけ。でも間違えると、じいさんにどやされる。毎朝同じことの繰り返しだけど、ぼくはこれが嫌いじゃなかった。
「セイ、それ間違ってる」
「どこですか」
「ひとつ右だ」
見直すと、たしかに違っていた。黙って入れ直す。じいさんは特に何も言わない。これがいつもの朝だ。
「端の方、今日は?」
「ないな。最近めっきり減った」
「人が少ないからですかね」
「そうだろうな。あっちまで行くやつが減ってる」
端、というのはこの世界の果てのことだ。どこまで歩いても歩いても、ある日突然、それ以上進めない場所に出る。透き通っていて、冷たくて、どれだけ押しても動かない。子どものころ一度だけ見に行ったことがある。でもただそこで止まるだけで、何もなかった。昔はその先まで続いていたらしくて、「王国の地図」なんてものがあったと聞いたことがある。でも今はもう、どこにも残っていないらしい。特に怖くもなかった。ただ、そこで世界が終わってた。それだけだ。だからみんな気にしない。ぼくも気にしてなかった。
そのときだった。次の荷物を手に取ったそのとき——入口の上の方が、ふっと陰った。
なんだ?
顔を上げたら、白いものが浮いていた。
細い茎みたいなものが一本。その先端に小さくて固そうなところ。そこから白い綿がふわっと放射状に広がって、全体が綿の気球みたいに見える。綿の一本一本が光を受けてうっすら透けていて、光でできているみたいだった。それがゆっくりと、でも確実に、上に向かって動いていた。
風はない。なのに止まらない。
「なんだ、あれ」
隣のやつも見上げてる。その隣のやつも見上げてる。みんな首を傾げてる。誰も知らないらしい。
ぼくは気づいたら手を伸ばしていた。背伸びすれば届く。指先が綿に触れた。
やわらかい。羽根より軽い。息を止めてそっと包もうとした瞬間——
するっと逃げた。
「あっ——!」
気づいたら外に飛び出してた。
空の下に立って見上げると、まだ上に動いてる。下の固いざらざらしたところが光を受けてきらっと光ってる。綿の一本一本が透けて見えるくらい、光の中にある。
綿はだめだ、とすぐわかった。あの下の部分を掴まないと。綿の付け根にある、あの小さな固いところを。あそこならざらざらしてるはずだ。滑らない。絶対に掴める。
でも——もう高い。
手を伸ばす。つま先が浮く。届かない。全然届かない。
上へ、上へ、どんどん小さくなっていく。
(待て。待ってくれ)
心の中で叫んだけど、届くはずがない。
ぼくはそのまま空を見上げていた。青い。吸い込まれそうなくらい青い。あれはあの青の中に消えていくんだ、と思った。
悔しい、とかじゃない。ただ——もう少しだった。指先が触れた瞬間の、あのやわらかさ。あれが頭から離れなかった。あんなに軽いのに、確かにそこにあったのに。
しまった、固そうな所を掴めばよかった。
それだけ頭に残ったまま、局に戻った。じいさんが仁王立ちで待ってた。
「なにしてたんだ」
「追いかけてました」
「捕まえられたか」
「逃げられました」
「……仕事しろ」
「はい」
棚に戻って手を動かす。荷物を受け取って、名前を読んで、棚に置く。その繰り返し。でも頭の中はずっとあの青の色だった。あの白い綿の、光の中の形だった。
◇
その夜、飯を食いながら父に聞いてみた。
「ねえ、白くてふわふわしてて、上に浮いていくやつって何?細い茎みたいなのの先に塊がついてて、そこから綿が球みたいに広がってるやつ」
父が少し考えてからうなずいた。
「ああ。ワタゲだな」
「ワタゲ?」
「昔、死んだばあちゃんが言ってた。外から入ってきて、また外に出ていくやつだ」
「外って空のこと?」
「そうだろうな」
空か。たしかにあれは上に向かってた。空に向かって、ずっと上に。誰も行ったことのない、あの青い場所に。
「捕まえたやつっているの?」
父がちょっと黙った。箸を置いて、少し遠いところを見てから言った。
「いるかもしれん。でも帰ってきたやつは聞かんな」
母が小さくうなずく。それ以上、誰も何も言わなかった。
帰ってきたやつは聞かんな。
怖い話なのか。でも——帰れなかったんじゃなくて、帰らなかっただけじゃないのか。帰る理由がなかっただけじゃないのか。そんな気がした。
風呂の中でずっとそれを考えてた。湯船に浸かりながら、天井を見上げながら。天井は白い。でも頭の中には青があった。
いや、それよりも。塊のとこを掴めばよかった。あそこはざらざらしてるはずだ。絶対滑らないはずだ。次に来たら絶対に逃がさない。今度は最初からあそこを狙う。綿じゃなくて、あのざらざらを。絶対に。
そう決めて、眠りについた。
◇
次の日、来なかった。
その次の日も、来なかった。
朝、局に向かいながら毎日空を見上げた。青いだけだった。雲もない。何も浮いてない。ただ青い。仕事中も入口が気になってじいさんにどやされた。何回どやされたかわからない。
「セイ、手が止まってるぞ」
「すみません」
「また入口見てたか」
「……すみません」
でもまた気になる。しかたない。たった一度見ただけのものを、こんなに待ち続けるなんておかしいとわかってる。でも止められなかった。あの青の色が、指先に残ったあの感触が、頭から離れないのだ。
三日目の夜、もう来ないかもしれないと思った。
四日目の朝、それでも空を見上げた。
四日目の昼過ぎ。外で弁当を食べてたときだった。
入口の光がふっと陰った。
次の瞬間には立ち上がってた。弁当が地面に転がったけど。どうでもいい。
何も考えずに走り抜けた。入口を抜けて、空の下に出る。
いた!
白い綿が、ゆっくりと上に動いてる。あの形だ。細い茎みたいなものの先にざらざらしたところがあって、そこから綿が球みたいに広がってる。間違いない。光の中で、綿の一本一本がうっすら透けている。
今日は低い。届く高さだ。
「待ってろよ!」
声に出てた。
真下に入って見上げる。ざらざらがすぐそこにある。小さくて、茶色くて、綿がそこからまとめて伸びてる。きらきら光ってる。
あそこだ。
深呼吸して、手を伸ばす。綿じゃない。ざらざらを狙う。茎みたいなところを指で辿って、上へ、上へ——塊に指が触れた。
がしっ。
滑らない。掴んだ。
次の瞬間——腕がすごい力で引っ張られた。上に、だ。
「うわっ!」
足が地面から離れた。反射でもう片方の手も伸ばして、両手で固いところを掴む。体重をかけると茎みたいなところがしなるけど、折れない。ざらざらが指に食い込む。痛いくらいだ。でもこれは手が離れない。絶対に離れない。
浮いている。本当に浮いている。
信じられなかった。あんなに小さな綿が、ぼくを空まで引き上げていく。こんなことが起きるなんて、四日前には思いもしなかった。
「セイ!」
じいさんの声が下から聞こえた。振り向く余裕はない。
郵便局の屋根が近づく。星の形の屋根のてっぺんを越える。
そのとき——空が、一瞬で視界全部に広がった。
青い。
すごく青い。いつも見上げてたのに全然違う。体ごと空の中にいる。上も下も青い。どこまでも青い。こんなに青かったのか、とぼくは思った。毎日見上げていたはずなのに、知らなかった。
風が耳を鳴らす。綿がぶるぶると震えながら、ぼくの体を引き上げ続けてる。
下を見たら、郵便局が小さくなってた。街が見える。毎日歩いてた道が、知ってる建物が、全部小さくなってる。あんなに小さかったのか。ぼくはあの小さな場所で、毎日荷物を並べていたのか。
怖いはずなのに、喉の奥から笑いがこぼれてくる。止めようとしても止まらない。なんで笑ってるのかわからないのに、体の方が先に楽しがっている。
もっと上に行く。もっと青くなる。風が強くなって体が大きく揺れる。この気球を掴む手に力を込め直す。ざらざらが指に当たる。痛いくらい当たる。でも離さない。絶対に離さない。
街が豆粒みたいになる。空がもっと近くなる。もっと青くなる。
どこまで行くんだろう。どこまで上がるんだ。空の向こうってどうなってる。そんなこと考えてるのに、答えなんてどうでもよかった。このまま離さなければ、どこかに行ける。それだけで最高だった。
「いってきます!」
声が出た。誰にでもなく。ただ、青に向かって。
そのまま、上へ、上へ。
青の中へ、抜けていった。
トゥンク、を大事に暮らしていたらお邪魔させていただきたくなりました。
たまにはこういうトーンを書いてみるのも楽しいですね。

