「別れる」ことで、初めて握手ができる/『ユーゴスラヴィア現代史』書評
2001年7月4日、大学生だった私は大分スタジアムにいた。
サッカー日本代表対ユーゴスラヴィア代表を観戦するためである。サムライブルーのユニホームを着ている人が多い中、私はピクシーことストイコビッチのユニホームを着ていた。
その試合は大ファンだった彼の、代表引退試合だった。
2001年当時、ユーゴスラヴィアからは既にクロアチア(1991年独立)やスロベニア(同1991年)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(同1992年)が独立し、ユーゴスラヴィアを構成していたのはセルビアとモンテネグロのみだった。
ストイコビッチのピクシー(妖精)という愛称が世界に知れ渡ったのは、ユーゴスラヴィアが分裂する直前だった1990年、サッカーW杯イタリア大会である。決勝トーナメント1回戦スペイン戦で彼は、最高に美しいゴールをふたつ決めている。
動画の2'20"頃、ゴールを決めたストイコビッチが駆け寄り抱きついているのは、その当時ユーゴスラヴィア代表監督であったオシムである。
このスペイン戦に勝利したあとの準々決勝で、マラドーナ擁するアルゼンチン相手に数的不利の中あと一歩まで迫りPK戦で敗退するのだが、PKキッカーを申し出たのはわずか2人のみだったとオシムが証言している。当時ユーゴスラヴィアは分裂の危機にあった。PKを皆が蹴りたくなかったのは、失敗して帰国した際に民族主義者により生命に危険に晒されることを恐れたためだといわれている。結局その2人以外の3人がPKを外してワールドカップを後にする。
ストイコビッチはその後日本に来る。数年でヨーロッパに戻るつもりだった彼は、日本を好きになり名古屋グランパスで引退まで在籍する。彼の美しいサッカーに多くの日本人が魅せられた。
オシムはジェフユナイテッド千葉を経て日本代表監督となる。彼の含蓄のある言葉は日本人の心に深く響いた。
そんな2人に魅せられた私は、ユーゴサッカーについて多く書いていた木村元彦の本を読み漁った。そこには、国が分裂していく最中、代表チームで共に戦う各民族の有名選手の葛藤が描かれている。ユーゴ紛争は「民族浄化」とも表現された残酷なものだった。世界的に活躍していたユーゴ代表選手たちが、民族は違えど共に戦う代表選手の仲間として揺れ動く気持ちがたくさん書かれていた。
さて、民族とは生物学的にはその違いが説明できないとされている。
それなら、兄弟愛と統一を掲げ、多民族が仲良く暮らしていたユーゴで、なぜ民族浄化が起こり、殺し合い、国は分裂していったのか。ずっと疑問に思っていた。
長年なんとなく引っかかっていた疑問が、柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)を読んで、すっと晴れた気がした。
答えは民族としての「血」ではなく「記憶」にあったのだ。
この国がいかに複雑であったか。それを象徴する有名なフレーズがある。
七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家
この「複雑さ」の正体を知ることは、現代の私たちが抱える社会の分断を考える上でも、大きなヒントになると思うのだ。
「記憶」が違うということ —— はざまの国の宿命
バルカン半島に位置する南スラヴは、常に文明の「はざま」だった。東ローマと西ローマ、ビザンツとカトリック、そしてキリスト教とイスラム教。ユーゴスラヴィアを構成していた南スラブの人々は、ハプスブルク帝国とオスマン帝国という全く異なる支配の下で、何百年も違う文化を呼吸してきた。
クロアチア人:ハプスブルク帝国の一部として、カトリック文化圏で生きてきた中世王国の誇り。
セルビア人:オスマン帝国の「柔らかい専制」下で、正教会を中心に共同体を守り抜いた記憶。
たとえばこの2国をとってみても、外見や言葉は酷似しているものの彼らが持つ歴史は全く異なっていた。話し言葉は同じなのに、書き言葉が違うのだ(キリル文字とラテン文字)。近代になると、第一次世界大戦で、独立国として甚大な犠牲(人口の24%)を払ったセルビアと、帝国側として戦ったクロアチア。これらの歴史的な記憶のズレが、のちの悲劇の伏線となる。
「トップダウン」の限界 —— アメリカとは何が違ったのか
多民族国家といえばアメリカだが、アメリカとユーゴの違いはなんだろうか。歴史がないアメリカは、なぜ多様な移民を束ねることができ(紆余曲折あるが)、歴史がありすぎるユーゴは、なぜ崩壊したのか。
それは、国を束ねる「一本の筋」の違いだと思われる。アメリカには「自由」というアイデンティティがあった。そしてそれを、資本主義による強力なシステムの中、音楽や映画や広告によって人々が共有できた。 一方でユーゴスラヴィアはそれがなかった。ユーゴ大統領チトーは「南スラブ統一」という夢を掲げたものの、結局はチトーというカリスマによる「トップダウン」の統合だったのである。第二次世界大戦後に表面上は平和をもたらしたように見えたチトーが死んだあと、1990年前後からはじまったユーゴ内戦は凄惨を極めた。本来は近しい存在であるはずが、政治エリートによるメディア操作という「毒」によって、民族の記憶の違いが近親憎悪へと変質させられたのだ。現代のSNSにおける「エコーチェンバー」や、私たちの国で見られる似た者同士が些細な違いで激しく攻撃し合う「小さな差異のナショナリズム」と、ほとんど構造的に同じではないか。
「ユゴスフィア」 —— 分かれたからこそ、握手ができる
彼らは本来、共に生きる知恵を持っていた。特にユーゴの縮図と言われたボスニアでは多民族・多文化が共生していた。混血も進んでおり、自らのアイデンティティを民族ではなく"ユーゴスラヴィア人"と選択するものも多かった。その近さこそが、ボスニア紛争の悲劇に繋がった近親憎悪的側面があるのだが、この憎悪を引き起こしたのも民族主義に駆られた各国のトップである。
その複合社会は多様な民族、言語、宗教の共存のための「実験場」でもあったということができるだろう。多様な文化が併存する状況から生み出される独自の表現は、容易に国を超える広がりを持っていた。(中略)ユーゴという複合国家がなくなってしまった現在、新たな独立国は政治的にも文化的にも、単一性や均質性を追い求めているように見える。しかし、歴史を振り返れば明らかなように、この地域では多様性を排して単一性を追求することこそが危険なのであり、「民族の悲劇」を生み出してしまったのである。
ユーゴスラヴィアという地上から消えてしまった国から得られる教訓は、多様性を受け入れるためにはトップダウンではなくボトムアップしかないということだと思う。
現在、「ユゴスフィア(旧ユーゴ圏)」という言葉が生まれつつある。経済やスポーツ、文化の分野で、国境を超えた草の根の連携が進んでいるのだ。トップダウンで強制された「連邦」ではなく、自立した個(国)同士が自発的に手を結ぶ。そう考えると、無理やり一つの国にまとめられたユーゴスラヴィア時代よりも、現在の方が好ましいのかもしれない。たとえ国家が単一性を志向しても、現代はテクノロジーによって草の根の連携が取られやすいからだ。
サッカーは、そのボトムアップのための格好の手段だと思うのだが。1990年W杯のスペイン戦でセルビア人のストイコビッチとボスニア人のオシムが抱き合ったように。
