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僕がいわゆる "ニューボーンフォト" の撮影を受け付けない理由

ニューボーンフォトというものがあります。

生まれて間もない赤ちゃんを、柔らかな布で包み、小さな籠に寝かせ、花やぬいぐるみを添えて撮影する。月や星を模したセットの中に置いたり、動物の帽子をかぶせたりする写真もあります。

とても人気があるそうです。

僕のストックの中にはこの手の写真はないので画像生成しました。

僕もカメラマンですから、撮影を頼まれることがあります。しかし、ニューボーンフォトの依頼は断っています。

技術的に撮れないからではありません。赤ちゃんが嫌いだからでもありません。

僕には、あの写真が「生まれた子どものための写真」には見えないからです。

多くの場合、あれは親の満足のために撮られます。

こんなにかわいい子どもが生まれた。こんなに美しく撮れた。こんなに素敵な家族になった。その喜びを形にすること自体は、決して悪いことではありません。

ただ、そのために赤ちゃんを布で巻き、姿勢を整え、小道具の中へ置き、親や写真家の考えた世界観に合わせていく。そのとき赤ちゃんは、一人の人間というより、写真を完成させるための素材に近づいてしまいます。

子どもは親の所有物ではありません。

愛玩動物でもありません。

もちろん、生まれたばかりの赤ちゃんは、自分の意思を言葉で伝えることができません。衣服も食事も生活する場所も、親が決めるしかない。だからこそ親には、子どもの意思を代わりに守る責任があります。

ところが、本人が拒否できないことが、撮影する側の自由に置き換わってしまうことがあります。

裸に近い姿にする。特殊な姿勢を取らせる。写真を人に見せる。場合によっては、写真館やカメラマンの宣伝としてインターネット上に公開する。

赤ちゃんは何も選んでいません。

愛情があることと、相手を所有物のように扱わないことは、別の問題です。

僕自身にも、生まれた直後の写真があります。

撮ったのは、当時まだ現役のカメラマンだった父です。

産院から帰った直後に撮影されました。ピントも甘いし構図も計算していないのは、父が嬉しくてお酒を呑んでいる最中に撮影したからです。

撮影場所は写真館でも産院でもありません。当時、両親が暮らしていた小さなアパートです。母が産院から帰ってきて、間もないころに撮られました。

母は布団に横になっています。出産で疲れ切っていたのでしょう。化粧をしているわけでも、撮影のために服を整えているわけでもありません。

その隣で、僕が寝ています。

僕は本当に、ただ「生まれました」という顔をしているだけです。

花もありません。籠もありません。帽子もありません。背景も整えられていません。

ストロボすら使っていません。

フィルムは富士フイルムのネオパン。カメラは国産の6×6判で、おそらくゼンザブロニカだったと思います。

そして画面の外では、父が喜んで酒を飲み、すっかり酔っ払っています。

写真としては、それだけです。

母は疲れて横になっている。

子どもは生まれて寝ている。

父はうれしくて酔っ払いながら、カメラを構えている。

けれど、この写真には、僕が生まれた日の家族の姿が、ほとんどすべて残っています。

写真に父の姿は写っていません。それでも、父がそこにいたことは分かります。母と子どもを見て、撮っておこうと思った。その行為そのものが、写真の中に残っているからです。

父は職業カメラマンでした。しかし、この写真の中で、撮影技術を見せようとはしていません。

母を美しく演出しようとも、赤ちゃんを特別にかわいらしく見せようともしていない。

その代わり、実際に起きていたことを消さずに残しました。

母が疲れていたこと。

両親がアパートで暮らしていたこと。

僕が何の飾りもなく、ただそこにいたこと。

それは、後になって僕自身が受け取ることのできる記録です。

僕はこの写真を見て、「かわいく撮ってもらった」とは思いません。

「僕が生まれたとき、母はこうして横になっていた」

「父は喜んで、酔っ払いながら写真を撮った」

「三人の生活が、この部屋から始まった」

そう思います。

この写真の主役は、親の理想でも、写真家の作品でもありません。

家族に実際に起きた出来事です。

写真とは、本来そういうものではないでしょうか。

写真は、撮った瞬間には撮影者や依頼者のものに見えます。しかし時間がたつと、その写真は写された人のもとへ返っていきます。

子どもの写真なら、なおさらです。

親が亡くなったあとも、子どもは写真を見るかもしれません。そのとき写真が語るのは、「親があなたをこんなふうに飾りました」ということなのか。

それとも、「あなたが生まれた日、私たちはこうしてあなたを迎えました」ということなのか。

僕は後者を残したい。

子どもを撮るなら、親の幸福を飾るための小道具としてではなく、すでに一人の人間として撮りたい。

泣いていてもいい。

顔が赤くてもいい。

部屋が片づいていなくてもいい。

母親が疲れていてもいい。

そのすべてが、その子が生まれた現実だからです。

ニューボーンフォトを依頼する親に、悪意があるとは思いません。多くは、ただ子どもの誕生がうれしくて、その喜びを残したいのでしょう。

でも、あえて言わせていただくと、ファインダーの向こうにいるのは、親の持ち物ではない。

いずれ成長し、自分の意思を持ち、自分の人生を生きる人間です。

子どもは愛玩動物ではありません。

だから僕は、ニューボーンフォトの依頼を断っています。


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