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『エロスは抵抗の拠点になり得るか』を読む

できないことを要求する

 三島は寺山修司との対談『エロスは抵抗の拠点になり得るか』で、キリスト教のカトリックについて、それを文化やエロスと結び付けて、次のように語っている(決定版40,680―681ページ)。

カソリックでは、正常なる夫婦間の、正常位による生殖を目的とする性行為しか認めないでしょ。あたかも薄いお盆に水を張って歩くと同じことだよ。歩けば水がこぼれる。カソリックだってそのくらい知ってますよ。だから、こぼれたら地獄へ落ちるか、それとも懺悔して救われるかしかない。まず人間にできないことを要求しておいて、そこからこぼれたものは自分のところへ取ろうというんだから、こんな欲張りな宗教はない。だけど見事に成功してるんだよ。それじゃこぼしてもいいといったら、何が始る?文化の根本問題なんだ。エロスは稀薄になるし、第一、あと許されざるものは、この世になくなっちゃうんだよ。だからドストエフスキーが「神がいなければ、すべてが許される」といったが、それだよ。

 三島によれば、「正常なる夫婦間の、正常位による生殖を目的とする性行為」しかしないというのは、普通の人間にはできない。そのことをカトリックは分かっていながら、あえてそれを要求し、できなければ地獄へ落ちるとする。そしてそのことによって、神に懺悔させ、救いを求めさせる。しかし逆にもしそれを要求しなければ、人間は神を求めなくなるかもしれない。それを三島は「エロスは稀薄になる」と表現している。

欠乏がエロスを起す

 では、三島にとってエロスとは一体何なのであろうか。三島は、「エロスというのは、要するに『欠乏の精神』でしょう。自分に足りないから何かが欲しいという」と語っている(674ページ)。だから、できないことがあって初めてエロスが生じるのであって、それがなければエロスも生じないことになる。それゆえ三島は上で「エロスは稀薄になる」と語ったのであろう。

 ということは、できてしまったら、獲得してしまったらエロスはなくなることになる。上記のケースでも、たとえ上記のような性行為しかしないということが、普通の人間にはできなかったとしても、神に懺悔して許されたら、もはやそこにエロスはないだろう。その点三島のエロティシズムは、「だって澁澤さんにとっては、エロティシズムは神とすれすれのところで神に背を向けるから、エロティックに高揚するんだから」(671ページ)と三島が語る澁澤龍彦のエロティシズムと共通していると言えるだろう。

形が芸術を成立させる

 以上のような問題を三島は上で「文化の根本問題なんだ」と語っている。こう語る三島はこの問題をさらに、芸術における形・フォルムの問題と結び付ける(681ページ)。

文化というのは人間に不可能なことを要求するものだと思うんだよ。その枠が外れると、どうしていいかわからなくなっちゃうんだ。あとは何でもできるんだから、グシャグシャになっちゃって、形ってものが存在しなくなる。フォルムというのはカソリックの夫婦間性行為と同じような意味を芸術に対してもっている。そのフォルムをこわしたら、もう芸術じゃないんだよ。

三島によれば、形・フォルムは、芸術を芸術たらしめるものであり、かつ、芸術に対して、カトリックの夫婦間性行為のような意味を持っている。ということは、形・フォルムは、「人間に不可能なこと」を人間に要求することによって、エロスを起し、そのことによって芸術・文化を成立させるものなのであろう。

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