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死者の汚れ(tumat met:トゥマット・メット)完全解説――民数記19章とミシュナに見る「汚れの階層」と清めのパラドックス

*人の死体は最も重い汚れを持つ「avi avot hatumah(アヴィ・アヴォット・ハトゥマー:汚れの祖父)」ですが、その汚れが移る過程が特異であり、一端汚れると完全に清くなるまで、1週間かかる手続きを要します。

 その清めに用いる「清めの水」は、一瞬でも他に注意を逸らしてはならない程の心構えが求められました。そして、最も重い汚れを清める「清めの水」が、使う者を汚すという逆説。

 旧約聖書の最高権威であるモーセ五書(トーラ)の『民数記』19章をベースに、口伝律法ミシュナの第6部『Tohorot(トホロット)』の『Parah(パラー篇)』『Keilim(ケリーム篇)』を参照しながら、「汚れの物理学」を徹底解説します。


祭儀的不浄の頂点:avi avot hatumah(アヴィ・アヴォット・ハトゥマー)

 旧約聖書においては、特にレビ記、民数記において祭儀的な汚れについて詳述されている。

 祭儀的な汚れとは、聖なるものに近付けない状態である。その汚れにも程度があり、最も重い汚れは死者の汚れである。口伝律法ミシュナ「Keilim(ケイリーム)」1章1節~4節は、重い汚れの中でも軽いものから重いものへの序列を記している。そこには次のように書かれている。

 これら全てよりも厳しいのは、遺体である。それはohelを通してtumahを移す。他の全てのものは、これによっては移さない。

(Keilim 1:4)

 私たちは前回、死者によって汚れた人の清めの手続きで用いる「清めの水」について見た。それはparah adumah(パラー・アドゥマー;赤い雌牛の灰)と地上から湧き出る水で作ったものである。

 (前回の記事はこちらからご覧頂けます)

◉民数記19章「赤い雌牛の灰」の完全解読:ミシュナ『Parah(パラー)』に見る儀式の構造と政治的背景


民数記19章の法学的構造:karet(カレート:民から断たれる)と清めのプロセス

 今回はそもそも死者による汚れが如何なるものであるのかを確認する。まずは民数記19章から。

 どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。 彼が三日目と七日目に罪を清める水で身を清めるならば、清くなる。しかし、もし、三日目と七日目に身を清めないならば、清くならない。すべて、死者の体に触れて身を清めない者は、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断たれる。清めの水が彼の上に振りかけられないので、彼は汚れており、汚れがなお、その身のうちにとどまっているからである。

(民19:11~13)

 全てが分かりやすく書かれていないが、ここでは次のことを言っている。

  1. 遺体に触れた者は7日間汚れる。

  2. 3日目と7日目に清めの水を振りかけなくてはならない。

  3. 7日目にはmikveh(ミクヴェ)に入って身を清める。

  4. 日没と共に完全に清くなる。

 「(もしこれらの手続きをしないなら)その者はイスラエルから断たれる」というのは、時々トーラ(モーセ五書)で見られる表現であるが、この罰則の具体的な内容は必ずしも明らかではない。

 原文では「魂はイスラエルから断たれる」であり、霊的な次元であることを窺わせる。しかし霊的な次元に留まらず、霊的な死は身体的な死にも影響するとされ、「karet(カレート)」と呼ばれている。

 いずれにしても、天の法廷が関わる事であるが、この問題はこの位にしておく。

汚れの伝播力学:遺体と同じ屋根の下(ohel:オヘル)にあるもの

 死者による汚れが他の汚れの源と比較して特異なのは、この後に続く節である。

 人が天幕の中で死んだときの教えは次のとおりである。そのとき天幕に入った者、あるいはその中にいた者はすべて、七日の間汚れる。また、蓋をしていなかった、開いた容器もすべて汚れる。野外で剣で殺された者や死体、人骨や墓に触れた者はすべて、七日の間汚れる。それらの汚れたもののためには、罪の清めのために焼いた雌牛の灰の一部を取って容器に入れ、それに新鮮な水を加える。身の清い人がヒソプを取ってその水に浸し、天幕とすべての容器およびそこにいた人々に振りかける。更に、人骨、殺された者、死体あるいは墓に触れた者に振りかける。三日目と七日目に、身の清い人が汚れた者に振りかける。汚れた者は、七日目に身を清め、衣服を洗い、体に水を浴びると、夕方には清くなる。しかし、汚れた者で、身を清めない者は、会衆の中から断たれる。主の聖所を汚したからである。清めの水が彼の上に振りかけられなかったので、彼は汚れている。これは、彼らの守るべき不変の定めである。清めの水を振りかける人は自分の衣服を洗う。清めの水に触れた者は夕方まで汚れる。汚れた者が触れるものはすべて汚れる。またそれに触れる者も夕方まで汚れる。

(民19:14~22)

 ここには極めて多くの律法が詰められている。まず、前回の記事でも触れたが、遺体と同じ屋根の下にあるものは汚れる。遺体の汚れの程度は先述の通り最も重く、avi avot hatumah(アヴィ・アヴォット・ハトゥマー)とされる。これは直訳では「汚れの父の父」である。

 この機会に汚れのレベルについて、上位3つをまとめておく。

  1. avi avot hatumah(アヴィ・アヴォット・ハトゥマー):汚れの父の父

  2. av hatumah(アヴ・ハトゥマー):汚れの父

  3. rishon l’tumah(リッション・レトゥマー):汚れの第1段階

 汚れは後で具体的に見るように、段階的に弱くなる。例えば遺体に触れた者は基本的にav hatumah(アヴ・ハトゥマー)になり、彼に触れた者はrishon l’tumah(リッション・レトゥマー)になる。

 汚れは人間にだけでなく、物にも伝わる。しかし人間であっても汚れを受けるのはユダヤ教徒だけであり、動物は生きている内は汚れず、物の中にも汚れるものと汚れないものがある。その原則は旧約聖書の最高権威であるモーセ五書(トーラ)の中に示されている。

 話を戻すが、遺体はavi avot hatumahであり、同じ屋根の下にあるものを、1つ段階が下であるav hatumahにする。1つ下と言っても、これも重い汚れである。

 人は勿論、基本的に物も遺体によって汚れたなら、清めの水を振りかけて清める。

聖別の厳格性:意志と物質の境界

 17節の「それらの汚れたもののためには、罪の清めのために焼いた雌牛の灰の一部を取って容器に入れ、それに新鮮な水を加える」(ibid.)というのは、清めの水そのものを作る動作を述べている。しかしこれは異常な程繊細な過程になる。次の掟を見て欲しい。

 誰かがmei chatatを聖別しようとしていて 、聖別の灰が彼の手、器の側面に付き、その後器の中に入って行くなら、その聖別は有効ではない。もしそれらが管から器の中に落ちるなら、聖別は有効ではない。

(Parah 6:1)

 まず「mei chatat(メイ・ハタート)」は清めの水のことである。これを作る際に、以下のことが起きたら、聖別されていない。

①赤い雌牛の灰が手の上に付き、それがたまたま器の中に入った場合。

②管状の容器から不意に、灰が水の中に入った場合。

 聖別は「片手間でやってはいけない」「一瞬たりとも意識を逸らしてはいけない」という完全な集中が要求される。その結果の聖別でなくてはならないが、これらの場合はその要件を欠いている。

 赤い雌牛の灰を作る際、最高法院の議員たちが列席したように、清めの水は全イスラエルの清めに関わることである。注意を逸らしてはならない。同様に次のようにも書かれている。

もし彼が管を地面に置くなら、灰は有効ではない。

(Parah 6:1)

 これは「灰を入れた管状の容器」を地面に置いたら、灰は無効になることを言っている。注意を逸らしたからである。手に保持していなくてはならない。

振りかけることの条件:滴下と軌道の判定

 18~19節には「身の清い人がヒソプを取ってその水に浸し、天幕とすべての容器およびそこにいた人々に振りかける。三日目と七日目に、身の清い人が汚れた者に振りかける。」と書かれている。

 人だけでなく、物にも3日目と7日目にeizov(ヒソプ)で「清めの水」を振りかける。

 これに関しても口伝律法ミシュナに多く書かれている。

 水を振りかける時、それが糸から飛んだか、紡錘から、または茎から飛んだか不確かである場合、有効ではない。
 2つのものに振りかける時、両方にかかったのか、1つのものから他方に滴ったのがかかったのか確かでない場合、有効ではない。

(Parah 12:2)

 1段落目は上にも見た、「聖別は全神経を集中してしなくてはならない」原則を言っている。

 ヒソプの束を振った際、水滴が「ヒソプの葉(本来の場所)」から飛んだのか、あるいは束を縛っている糸や、持ち手であるつむぎ棒から飛んだのか、あるいは「葉のない茎」から飛んだのか確信が持てない場合、有効ではないとする。

 2段落目は次のことを言っている。

①水滴が空中で二手に分かれ、それぞれAとBの表面に直接着地した場合、有効である。

②水滴がまずAの縁に当たり、そこから滑り落ちてBの表面を濡らした場合、Bは有効ではない。

 次の19節後半だが、「汚れた者は、七日目に身を清め、衣服を洗い、体に水を浴びると、夕方には清くなる」とある。わざわざ「衣服を洗うこと」にも指摘しているのは、衣類もまた、av hatumahになるからである。

 これは覚えていて欲しいが、人は基本的にavi avot hatumahとav hatumahからしか汚れない。rishon l'tumahからは汚れない。

 遺体と同じ屋根の下にあった衣類はav hatumahであるから、それは清めなくてはならない。具体的にはmikvehに浸すことになる。つまり人も衣類(物)も、3日目と7日目に清めの水を振りかけられた後、mikvehに浸かることになる。

 「主の聖所を汚したからである」(20節)は汚れたまま神殿の敷地に入ってはならないことを言っている。神殿の敷地は聖性を保持している。

清めの水のパラドックス

 「清めの水を振りかける人は自分の衣服を洗う。清めの水に触れた者は夕方まで汚れる」(21節)について、最も重い汚れを取る「清めの水」を使う者が汚れるというのは奇妙である。

 ラビたちにとっても最大の逆説であるらしい。神の定めたことは、必ずしも人間に理解出来ることばかりではない。その代表例である。

 ともかく、その汚れの程度も口伝律法ミシュナで論じられている。

 av hatumahとなるものは・・・(中略)・・・十分な量の無い清めの水。これらのものは、人と道具を接触を通してtameiにし、空間によって壺をtameiにする。しかし運ばれることによってはtameiにしない。

(Keilim 1:1)

 av hatumahの重い程度で汚れているものの1つとして、「十分な量の無い清めの水」と明記されている。これはeizov(ヒソプ)で振りかけるのに十分な量が無いことを言っている。

 文中の「tameiにする」、「tameiにしない」とは、「汚れを移す」、「汚れを移さない」ことを意味する。これによると、十分な量の無い清めの水は、接触によって汚れを移すが、触らずに運ぶだけでは人に汚れを移さない。

 しかし分量が多くなると、話が変わる。

 これらのものより上にあるものは・・・(中略)・・・十分な量の清めの水、これらは運ばれることによってtameiにするし、その服もtameiにする。しかし単なる接触であるなら、衣類はtameiにしない。

(Keilim 1:6)

 「十分な量の清めの水」の場合は、運ぶだけで汚れを受ける。その時は着ている服も汚れる。しかし体の一部で触った場合、自分は汚れるが、服は汚れない。これはトーラ本文の次の箇所に拠っている。

 清めの水を振りかける人は自分の衣服を洗う。清めの水に触れた者は夕方まで汚れる。

(再掲 民19:21)

 清めの水を保持している者は、衣類まで洗うことが命じられている。しかし触った者については、衣類について言及していない。

結論:理解を超えた神の定めに

 今回の解説は以上であるが、「何を言っているのか分からない」と感じた方も多いだろう。汚れの律法は複雑で、これでも簡単な部分を選んで書いた。

 よく俗世間や教会は、神の定めに関してその理由を求めようとする。そういった「解説」は多い。しかしユダヤの人々は決して理由を求めない。「それは神の定めたことである。理由など分からない。私たちはそれに従う。王の命じたことだから」ーー彼らはそのように答える。

 そして彼らは言う、「私たちは幸福について神を讃える。また、不幸なことについても神を讃える。良いことであれ、悪いことであれ、全てを越える方を讃える。悪いことが起きたなら、それも神の裁きである。」

 私はこの姿勢を讃える。彼らから学びたい点である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)

 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

 ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

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