イエスを裁いた『最高法院』への道(2回目):旧約聖書の裏に隠れている3人判事の法廷②
※本記事は、古代イスラエルの律法(モーセ五書および口伝律法ミシュナ)における法的権利と賠償制度を、宗教史・法制史の観点から解説する学術的考察です。一部、当時の法律用語に基づいた表現を含みます。
新約聖書でイエス・キリストを裁いた「最高法院」。その強大な権威の背景には、旧約聖書の最高権威であるモーセ五書(トーラ)と口伝律法(ミシュナ)によって築き上げられた緻密な司法ピラミッドが存在していました。
本連載では、最高法院へと続く道筋の第2回目として、古代ユダヤ社会で最も身近だった「3人判事による法廷」に焦点を当てます。
家畜の盗難や傷害事件といった日常のトラブルから、強制性交、誘惑、そして女性の名誉を汚す虚偽の主張まで、モーセ五書(トーラ)がこれらの事件をどう定義し、いくらの「賠償金」を課したのか。本稿では、当時の女性の社会的立場や家族の権限を紐解きながら、現代の法観念にも通じる驚くべき論理性を浮き彫りにします。
聖典のルーツ:最高法院へと続く「3人判事の法廷」
前回は以下の内容を見てきた。
①旧約聖書を読んでみると、「最高法院」という単語は1つも出てこない。
②しかしその起源は民数記11章に書かれている。これに従い、最高法院の議員は長を含め71人で構成される。
③「最高」法院と言われる通り、これは最も高い権威の法廷であり、その下にも幾つかの法廷が存在する。
④その内、最も身近な法廷は3人の判事による法廷である。これは日本においては、取りあえず簡易裁判所くらいの感覚でいいだろう。
⑤3人判事による法廷は、「Sanhedrin」1章1節によると、以下の事案について審理する。
【1】金銭問題
【2】盗難事件
【3】傷害事件
【4】全部賠償、半分賠償、2倍の賠償、4倍の賠償、5倍の賠償事件
【5】強制性交
【6】誘惑者
【7】妻の貞節の評判を落とす主張
⑥これらの事案は完全にそれぞれが独立した形である訳ではない。たとえば傷害事件を起こしたら、当然賠償問題になり、金銭問題に発展する。
⑦前回はこの内、【1】~【3】までを確認した。今回はその続きである。
財産の侵害:なぜ「牛は5倍、羊は4頭」の賠償なのか
【4】「全部賠償、・・」からになるのだが、この内「2倍の賠償事件」は前回の記事において、盗難事件【2】について扱った。盗んだ犯人は2倍の価額で賠償する。
【4】の全てをここで扱うことは出来ないので、旧約聖書において特徴的な「4倍の賠償、5倍の賠償事件」について取り上げよう。まずは旧約聖書の中でも最高権威であるモーセ五書(トーラ)の次の箇所を読んで欲しい。
人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。
これについては、口伝律法ミシュナ「Bava Kamma(バヴァ・カンマ)」7章1節に次のように書かれている。
2倍の賠償は4倍、5倍と比べてより包括的である。というのは、2倍の賠償は生きているものにも、生きていないものにも適用されるが、4倍、5倍の賠償は、牛と羊にのみ適用されるからである。次のように書かれている、「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。」(出21:37)
誰かが盗人の後に盗んだなら、2倍の賠償をしないし、屠ったり売却したりしても、4倍、5倍の賠償をしない。
順番に説明しよう。冒頭部分は、2倍の賠償事件に該当するのは、生物を盗んだ場合も道具を盗んだ場合も同様であることを言っている。しかし4倍、5倍の賠償事件は、牛や羊を盗んだ場合に限られる。
その理由はトーラの中で、「牛を盗んだなら5倍、羊の場合は4倍」と明確に規定されているからである。この種の事案は3人判事による法廷で審理する。
「誰かが盗人の後に盗んだなら、2倍の賠償をしないし、屠ったり売却したりしても、4倍、5倍の賠償をしない」というのは、盗んだ者から、その同じ物を更に誰かが盗んだ場合、その者は2倍の賠償責任はないという事である。彼は元々の所有者に対して、現物を返還すればよい。
さて、ここからは今回の本題「ⅴ、強制性交・ⅵ、誘惑者」について語る。
この2つの事件について、トーラでは事実上一体的に語られているので、同時に扱うことにする。まずは強制性交について、申命記の次の箇所を読んで欲しい。
もしある男が別の男と婚約している娘と野で出会い、これを力ずくで犯し共に寝た場合は、共に寝た男だけを殺さねばならない。その娘には何もしてはならない。娘には死刑に当たる罪はない。これは、ある人がその隣人を襲い、殺害した場合と同じような事件である。男が野で彼女に出会い、婚約している娘は助けを求めたが、助ける者がいなかったからである。
ある男がまだ婚約していない処女の娘に出会い、これを捕らえ、共に寝たところを見つけられたならば、共に寝た男はその娘の父親に銀五十シェケルを支払って、彼女を妻としなければならない。彼女を辱めたのであるから、生涯彼女を離縁することはできない。
ここでは2段落に分けられているが、最初の段落は強制性交した女性が婚約していた場合である。この場合加害者には死刑が問われることになるので、3人判事による法廷では裁くことが出来ない。
2段落目は強制性交した女性が全くの未婚であったケースである。3人判事の法廷で問題になるのはこちらである。そこで、以下ではこの2段落目だけを扱うことにする。
次に誘惑について、出エジプト記22章である。
人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない。
「naarah(ナアラー)」という境界線:女性の権利と父親の権限
この2つの箇所を理解するには、律法における女性の立場を踏まえなくてはならない。ユダヤ教において女性は年齢と家族との関係から、次の3つに分けて扱われる。
①未成年
②naarah(ナアラー):12歳の誕生日から半年間。
③bogeret(ボゲレット):naarahが終わった後の女性。成人女性とされる。
この内、最も重要であり微妙であるのが②のnaarah(ナアラー)である。上記引用のトーラにおいて、申命記22章と出エジプト記22章の「まだ婚約していない処女」は、どちらも「naarah(ナアラー)」の単語が使われている。
naarahについては、上記に「もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合」(出22:16)とある通り、父親が結婚させる権限を持っている。まずはこの父親の権限について説明する。
父親は娘が生まれてから、未成年である間及びnaarahの期間は嫁に出す権限を持っている。それ以降、女性がbogeret(ボゲレット)になると、その権限は消滅する。bogeret(ボゲレット)は成人女性であるからである。
従って、一家にとってnaarahの期間にある娘は、作物に喩えると収穫前の状態であり、父親が嫁に出す絶好の機会になる。
上に引用した強制性交、誘惑についての規定は、実はnaarahだけに適用される。その他の期間の女性については、また別の扱いになり、その内容は次回に譲ることにする。
賠償の算定:辱め・価値の低下・罰金・そして「苦痛」
話を戻すが、未婚のnaarahを強制性交、誘惑した場合について、今度は口伝律法ミシュナ「Ketubot(ケトゥボット)」3章を参照してみよう。読んだだけでは分からないと思うが、とりあえず目を通して欲しい。
誘惑者は3つの事の為に支払い、強制性交した者は4つである。誘惑者は辱めたこと、価値を下げたこと、罰金の為に支払う。強制性交した者は更に苦痛を与えたことにより、支払う。強制性交した者と誘惑者の違いは何であろうか?強制性交した者は苦痛の為に支払い、誘惑者は苦痛の為には支払わない。強制性交した者は即座に支払う、誘惑した者は彼女を去らせた時に支払う。強制性交した者は自分の壺から飲むことになり、誘惑者は、-もし彼女を去らせることを望むなら、彼女を去らせることになる。
ここでは、強制性交した者と誘惑した者への責任の相違を扱っている。まずは誘惑した者については、以下の3つの項目について賠償責任がある。
1、辱め
2、価値の低下
3、罰金
である。これに対して、強制性交した者は以下の通りになる。
1、辱め
2、価値の低下
3、罰金
4、苦痛
彼は力づくで犯したので、「苦痛」の面でも補償することになる。誘惑者の場合、naarahの同意もあったので、苦痛については問われない。「罰金」の価額については、引用の通り「共に寝た男(強制性交者)はその娘の父親に銀五十シェケルを支払って」(申22:29)、「(誘惑者は)処女のための結納金に相当するものを銀で支払う」(出22:16)とされる。
これを見ると、強制性交者と誘惑者では罰金の額は異なるようにも思える。しかも誘惑者の方は「結納金に相当するもの」という仕方で書かれており、具体的な金額が明示されていない。
しかし彼も強制性交者と同じく銀50シェケルとされる。
3人判事による法廷では、以上の点を考慮して最終的な補償額全体を決めることになる。その補償を実際に受けるのは父親である。娘は完全に成人に達していないnaarahであり、父親の監護の下にあるからである。
次に彼らが実際に補償するタイミングについてだが、ミシュナには「強制性交した者は即座に支払う、誘惑した者は彼女を去らせた時に支払う」とある。
強制性交の場合、加害者は判決が出た直後に、50シェケルの罰金を含むすべての賠償金を一括で、即座に支払わなければならない。彼は「彼女を辱めたのであるから、生涯彼女を離縁することはできない」(申22:28)。離婚することも不可である。
他方で誘惑者の場合、「もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない」(出22:16)とある。
これを分かりやすく説明すると、「誘惑者は彼女を妻とすることが確定したなら、父親に罰金を支払って嫁にする。しかし妻にしないことが確定したなら、罰金を払っても嫁にはしない」となる。
いずれしても、誘惑者の場合この点について決まってから、補償金全体も確定し、支払うことになる。
言葉の責任:名誉毀損に課される「2倍の罰金」と不文律
最後に「【7】妻の貞節の評判を落とす主張」について語ろう。まずは申命記22章から。
人が妻をめとり、彼女のところに入った後にこれを嫌い、虚偽の非難をして、彼女の悪口を流し、「わたしはこの女をめとって近づいたが、処女の証拠がなかった」と言うならば、その娘の両親は娘の処女の証拠を携えて、町の門にいる長老たちに差し出し、娘の父は長老たちに、「わたしは娘をこの男と結婚させましたが、彼は娘を嫌い、娘に処女の証拠がなかったと言って、虚偽の非難をしました。しかし、これが娘の処女の証拠です」と証言し、布を町の長老たちの前に広げねばならない。町の長老たちは男を捕まえて鞭で打ち、イスラエルのおとめについて悪口を流したのであるから、彼に銀百シェケルの罰金を科し、それを娘の父親に渡さねばならない。彼女は彼の妻としてとどまり、彼は生涯、彼女を離縁することはできない。
妻の貞節について虚偽を述べた夫は、次の代償を払うことになる。
①鞭打ち
②銀100シェケルの罰金
③一生、離縁不可: 妻を守るための終身的な責任。
この内、②の銀100シェケルの罰金については、強制性交や誘惑の場合と比較して2倍の額になっている。言葉によって一人の女性の人生と家門の名誉を汚す行為を、暴力や性的不品行よりも厳しく裁くことになる。
以上が3人判事の法廷の管轄事項になる。
3人法廷から23人法廷へ――死刑をめぐる司法の壁
次回はnaarahでない女性、婚約中のnaarahへの強制性交や誘惑について扱う。後者の場合、死刑判決の是非も問題になる。「もしある男が別の男と婚約している娘と野で出会い、これを力ずくで犯し共に寝た場合は、共に寝た男だけを殺さねばならない」(申22:25)とあるからである。
死刑が問題になる場合、3人判事の法廷で扱うことは出来ない。それは23人判事の法廷になる。
従って次回は、naarahでない独身の女性と、23人の判事の法廷について語ることなる。
(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)
シリーズ目次は以下からご覧になれます。
【シリーズ目次】ミシュナ『Sanhedrin』法理研究
https://note.com/mishnah/n/n8cf87c1bb399
本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)
https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334
全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。
◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス
https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c
(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)
◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次
ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。
