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安息年の法的構造とミシュナ「Sheviit(シェヴィイート)」による実務的規定 第1回:biurとhefkerを巡る律法体系の記述

*本稿では、旧約聖書(タナハ)の安息年規定を、口伝律法ミシュナ『Sheviit(シェヴィイート)』に基づき、その法的構造を記述する。

 産物の保持期限「biur(ビウール)」と所有権放棄「hefker(ヘフケル)」、更に、安息年における土地の耕作禁止の細則、違反者への罰則、及び「使用収益と消尽の同時性」に基づく対象作物の基準の論理を、ラビ・ユダ、ラビ・ヨセ、Beit Shammai、Beit Hillelの議論を通して提示する。


出エジプト記23章における安息年の原義


 今回から数回に渡って安息年を扱う。まずはトーラの出エジプト記23章から。

 10あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。 11しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。

(出23:10~11)

 まず、「野の獣」に着目する。

 「野の獣に食べさせる」という聖句から、安息年の産物を家の中に保持してよいのは、「同じ種類の作物を、野の獣がフィールドで直接食べられる状態にある間だけ」とされる。

 畑に何も食べ物が無くなった状態、それは「biur(ビウール)」と呼ばれる。

産物の保持期限「biur(ビウール)」と所有権の変容


 これに関して口伝律法ミシュナ「Sheviit」9章には次のように書かれている。

 biurが来た時に安息年の作物を持っている者は、誰にであれ3食分配らなくてはならない。貧しい者だけが持って行くのであり、豊かな者は不可である。これはラビ・ユダの言葉である。ラビ・ヨセは言う、「貧しい者も豊かな者も、biurの後は食べてよい。

(Sheviit 9:8)

 これはbiurが到来したら、所有している作物が「誰のものになるのか」という安息年の効果を巡る議論になる。

ミシュナ「Sheviit」9章8節における分配の法的優先順位


 まず「誰にであれ3食分配らなくてはならない」について、3食を配るのは次の順序で行う。

①家の者たち

②隣人、親族、知人

③その他

 この内、②までの手続きを済ませたら、残った物を家の玄関に出して「イスラエルの家の兄弟たち、誰であれ必要な者は取って行くがよい」と宣言する。

 ここで2人のラビの見解が示されている。以下のようにまとめられる。

ラビ・ユダとラビ・ヨセの見解:聖句に基づく対象者の定義とhefkerの範囲


【1】ラビ・ユダの立場

 「あなたの民の乏しい者が食べ」(出23:11)という聖句からは、貧しい人だけが対象になっている。

 他方でレビ記には次のように書かれている。

 6安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、 7更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる。

(レビ25:6~7)

 ここでは全ての人が対象になっている。ラビ・ユダはレビ記25章はbiurの到来する前について言っており、出エジプト記23章はbiur到来後について言っていると解釈する。

 だから、biurの後には、貧しい人だけが表に出ているものを持って行ってよい。

【2】ラビ・ヨセの立場

 ラビ・ヨセは「あなたの民の乏しい者が食べ」(出23:11)については、特に貧しい人にしか与えてはならないという趣旨ではないとする。

 ここでは全ての人に等しく開放されなくてはならないことを強調していると解釈する。

 いずれにしても、この所有権の放棄はhefker(ヘフケル)と呼ばれる。

 次のトーラ箇所に進む。

土地の「全き安息」と労働の外観規制:Sheviit 4章1節における変遷

 1主はシナイ山でモーセに仰せになった。
 2イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。
 あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。 3六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、 4七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。 5休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。

(レビ25:1~5)

 4節以降、土地に「全き安息」を与えるとある。ここで具体的に何が許容され、何が禁止されるのかが問題になる。

 これについて、例えば次のように書かれている。

 最初、彼らは言っていたものである、棒切れ、石、雑草を自分の畑から取ってもよい、隣人の畑から取るのと同じ仕方で。-大きいものを。違反する者が続出したので、彼らは定めた、報酬なしに他人の所有地から取る場合のみ許容されると。言うまでもなく、食事を供してもならない。

(Sheviit 4:1)

 これは安息年において、燃料や家畜の餌にする為に枝切れとか雑草を集めることについて言っている。

 「最初、彼らは言っていたものである」とは、当初は以下の規則のもとで社会が動いていたことを言っている。

 「棒切れ、石、雑草を自分の畑から取ってもよい、隣人の畑から取るのと同じ仕方で」について、後半部分から見ると分かりやすい。

 誰も他人の畑の為に石ころを取り除いたりしない。これは畑の準備という外観を作っていない作業について言っている。

 「隣人の畑から取るのと同じ仕方で」なら許容されるというのは、周囲から安息年律法の違反を疑われない仕方なら、当初棒切れや石ころを取ることを許されていたという意味である。

 しかし「違反する者が続出したので」とある。石の大小、枝の長さを問わず取り除き、掟が実質的に守られなくなったので、ラビたちが新たに規則を定めたことを言っている。

 その内容は「報酬なしに他人の所有地から取る場合のみ許容される」。つまり畑から上記のものを取り除いてよいが、自分の所有している畑では許されない。

 他人の畑から取る場合も、労働の対価として何も与えない場合に限ることを言っている。

 次である。

安息年違反に対する罰則と論理:Beit Shammai対Beit Hillelの対立点

 茨が取り除かれた畑は、安息年の後に種を蒔いてよい。完全に耕された畑、もしくは動物が放されていた畑は、安息年の後に種を蒔いてはならない。もし畑を耕してしまったら、-Beit Shammaiは言う、「安息年の間、その作物を食べてはならない。」しかしBeit Hillelは言う、「食べてよい。」

(Sheviit 4:2)

 これは安息年の禁止事項に違反した者をどう扱うか、罰則を巡る議論である。

 安息年に茨を取り巻くことは、トーラで禁止されているとは考えられていない。これはラビたちによって禁止されている。しかし茨を取り除いただけでは、耕作することは出来ないので、具体的な罰則までは規定されていないという事である。

 これに対して「完全に」耕したり、動物を放して糞をまかせ、肥料に用いるようなことは、第8年目に耕作を禁止される。

 「完全に耕す」ことの具体的な内容については、やや細かい議論が紹介されている。

 異教徒がイスラエルを治めていた時、作物を納めない者を処刑すると定めた。律法は生命に関わる場合、禁止していることを許容する。

 そこでこの時安息年に耕作することが認められたが、それでも1回の耕作のみ認められたという事である。2回以上耕した者は、翌年の耕作を認められなかった。

違法耕作物の受益権を巡る議論


 後半にはBeit ShammaiとBeit Hillelの議論が掲載されている。次のようにまとめられる。

【1】Beit Shammaiの見解

 安息年の間に耕してしまった畑の作物は、食べてはならない。耕作自体が違法だからである。

【2】Beit Hillelの見解

 耕作は違法だが、それを食べることは禁止されていない。安息年の作物は特定の所有者がいないものであるから、他者には許容される。

 しかしBeit Hillelも本人は食べてはならないことを主張する。

安息年作物の「聖性」の定義:使用収益と消尽の同時進行性


 次に安息年の作物の聖性について扱う。既に引用した箇所だが再掲する。

 6安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、 7更にはあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる。

(レビ25:6~7)

 安息年の律法が適用されるのは、全ての作物ではない。トーラでは「食物」が対象として明示されている。しかしラビたちは厳密に食べるものだけでなく、食べることに準じる行為のものも対象に含まれるとした。

 これは具体的には、そのものを用いることが、そのものを使い尽くすようなものである。それが食べることに準じる行為のものと定義される。

 例えば塗料や染料である。それらはそれから利益を享受することは、それらを使い尽くすことである。そこで食用でないものでも、塗るだけ、染めるだけのものでも安息年律法に従うものがある。

 これに対して、木材は律法には従わない。それは焼く為に使われるが、使い尽くす過程で何かを焼くというより、炭になってから焼くと定義されるからである。

 安息年の掟の対象になるには、使用収益する過程と消尽する過程が、同時に進行しなくてはならない。

 安息年について、主要なルールが言われている。何であれ人間の食べる物、動物の食べ物、染料、土の中で放置すると腐ってしまうもの、-これらは安息年の聖性を持っているし、それと交換した硬貨も安息年の聖性を持っている。それはbiurに従うし、それと交換した硬貨もbiurに従う。

(Sheviit 7:1)

 ここでは今述べた原則が確認されている。冒頭で扱ったように人の食用になるものだけでなく、動物の食べ物も指示されている。

 また、biurに従うだけでなく、交換した硬貨も聖性を得ることを言っている。これについては、また後の回で扱う。

 これらの安息年の掟に従う作物は、他の年のように自由に用いることが出来ない。次のように書かれている。

用途の意図に基づく規定の峻別:食用品・医薬・木材の判定基準

 安息年に関して主要なルールが定められた。何であれ、人の食べるものは膏薬で用いてはならない。動物にも不可である。

(Sheviit 8:1)

 安息年の作物で食べることの出来るものは、食べることのみに用いることが出来る。医薬に用いたりしてはならない。

 次はもう少し複雑な事例を扱っている。

 人間の食用に保存されないものは、人間の為に膏薬で用いてよい、しかし動物には不可である。-人間の食用の為にも動物の餌の為にも保存されないものが、-人間の食用と動物の餌の為に意図されたなら、どちらの規定も適用される。もしそれを木材として意図するなら、それは木材として扱われる。たとえばセイボリー、ヒソプ、オレガノである。

(Sheviit 8:1)

 簡単に見えて分かりにくい文章だが、次のような事を言っている。

①人間の食用に保存されないもの

 医薬に用いることが出来る。しかし動物には使ってはならない。

②食用にも餌用にも保存されないもの

 これは紛らわしいが、食用にもなり、餌用にもなるものである。しかしどちらの用途に用いるのか、明示していない場合のことを言っている。

この場合、人間の食用にも動物の餌にも、つまり両方の用途で意図したなら、どちらの規定も適用される。

 これは結果的には厳しい掟が適用されることを意味する。従って人間が食べる以外の用途が禁止される。

③木材(薪)として意図されたもの

 木材として使われる。これは上述の通り、安息年の規定は適用されない。従ってbiurにも影響されない。

 今回の内容は以上である。

(この記事は、旧約聖書の最高権威モーセ五書[トーラ]と口伝律法[ミシュナ]及びその膨大な参考書の研究に基づいています。日本語圏における聖書学の再構築を継続し、さらなる『掃除』を推し進めるための研究費として、志ある方のご支援をいただければ幸いです)

 シリーズ目次は以下からご覧になれます。

◉【シリーズ目次】ミシュナ『Sheviit』法理研究

https://note.com/mishnah/n/nef4129b1101f


 本記事周辺の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【全体目次Vol.1】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事リスト(No.1〜No.200)

https://note.com/mishnah/n/nf0de8c6c7334


 全記事の時系列目次は以下からご覧になれます。

◉【時系列総目次】ミシュナと旧約聖書・新約聖書:全研究記事インデックス

https://note.com/mishnah/n/nd780d32f266c


(ミシュナの構造による目次は以下からご覧になれます)

◉ミシュナの部(seder)に基づく全記事の目次

 ミシュナは生活と信仰の全領域を「種子」「祭日」「女性」「損害」「聖物」「清浄」の6つの部(セデル)で網羅している。各記事を法典本来の分類に配置し直すことで、2,000年前の「律法の現場」における聖書の背景をより明確に提示する。

https://note.com/mishnah/n/n4ccb130fe6ef

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